31. けれどこの一瞬は忘れない(adagio)

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お題配布元→capriccio

 わたしにとって先生のところは、居場所であって、それ以上の説明をしようがないほどたぶん大事なもの。
逃げて逃げて、やっぱり逃げ続けて、依存してしまう自分はそのままで。
わたしはわたしのことが好きじゃない。
でも、嫌いだって言い切ることはできないでいる。
そんなところもやっぱり、わたしはまだ逃げ場を求めてしまっている。

「秋音?」
「せ、・・・・・・学さん」

わたしたちの噂はそれほど大事になることなく、すんなりと卒業してしまった。
先生との関係は相変わらずで、それをどうやって名づけていいのかわからないまま。 離れることももっと近づくこともできずに、ずるずるとここまできてしまっている。
ともだち、と、呼んでいたクラスメートからの連絡は徐々に間隔があいていき、今ではめっきり話す機会もなくなってしまった。
そんなもの、と思っていたわたしはわたしで、今の生活に慣れることに必死で、寂しいと思う暇さえない。
結局、近くの医療系の短大に入った自分は、今まで勉強してこなかったつけが一気にたまったかのような生活に追われている。
そもそも、わたしがそこに合格したのが奇跡みたいなものなのだけど。

偶然、街中で先生に会うと未だに緊張する。
どういう態度をしていいのかわからなくて、挙動不審になる。
そんなわたしを余裕のある表情で見下ろす先生は、右手に大きな袋を下げている。
今日は友達の結婚式があるからわたしとは会えない、と言っていたことを思い出す。
いつもとは違う格好をした先生を素直に格好がいいと思い、照れた顔をみられたくなくて俯く。

「めし、食った?」

曖昧に首をかしげる。
でも、先生の言葉で朝から何も食べていなかったことを思い出してしまった。
食べることに興味がないわたしは、放っておかれれば不規則な食生活を続けてしまう。そうならないように、先生はわたしに声を掛け、気遣ってくれている。

「でも、せんせい」

引き出物の紙袋を指差す。
披露宴には、ごはんがでるはずだ、ということぐらいは知っている。
わたしに合わせて、食べたくも無いごはんを食べてもらうのは申し訳ない。
意図に気がついたのかどうなのか、先生はわたしの頭を撫でて笑う。

「量が少ないのなんのって、あれじゃあ腹の足しにもなんねー、つって出てきたところ」
「足りないって」
「ほんとほんと。その割にはお色直しはたくさんしてたみたいだけど」

浮世の義理だ、という付き合いから解放されて、先生は機嫌がよさそうに話す。
一世一代のイベントも、当人以外にとってはたくさんある出来事の中の一つなのかもしれない。

「ラーメン、とか?」
「ん?いいのか?」
「いいですよ、好きだし」

ごく自然と二人で、行ったことのあるラーメン屋へと歩き出す。
時折先生の愚痴を聞きながら、わたしはうなずいたり相槌を打ったり。
他愛もない接触が、わたしのなかでどんどん大事なものになっていく。
たどり着いて、ドアを開け、先生がわたしを中へと促す。
背中に触れた手の平の感触を、わたしはもう知っている。
いつまで先生といられるのかはわからない。 でも、わたしはきっと、こんな何気ない一瞬をわすれたりはしない。
たとえ、先生がわたしのことを忘れたとしても。



adagio
update:9.04.2012 再掲載:12.10.2012/9.4.2012

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