24. 薄紅

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お題配布元→capriccio

 空、を見た。
赤い絵の具を溶かしたような薄紅色の空を。
生まれて初めてみた空の色に、私は思わず足を止め、次の瞬間意識を失った。
薄紅から漆黒へと変化した光景を、私は今でもひどく覚えている。



「ああ、そっちじゃない」

でっぷりと肉をつけた年かさの女が、いらだった声を隠そうともせず、貧弱な小娘を叱り付ける。
娘は、何の感情も映し出さない目で彼女を見上げ、小さく頭を下げる。

「まったく、陰気臭いったらないね」

そう言い捨てて、太った女は重そうな体を力いっぱい地面に打ち付けながら歩き去った。
娘は、指示通りに屋敷のあちこちから布類をかき集め、仕事場となる洗濯場へと急ぐ。
黒い髪は後ろでただ束ねられ、三角形の白布が頭部を、一本の髪も逃さぬよう包んでいる。
指示をした女から、少しばかり肉をわけてもらえば、随分と面立ちがかわいくなるのかもしれない。しかしながら、娘は大層痩せていて、周囲に非常に貧相な印象を与えた。
少女は筋張った手をこすりながら、一つ一つを丁寧に洗濯していく。
迅速に、かつ丁寧に仕事をこなさなければ、昼食すら与えられない生活に、娘はすっかり慣れてしまった。
昔を、思い出さないことはない。
ただ、幸せだったその頃の記憶はすっかり色あせ、覚えているのはただ薄紅色をした空だけだ。
それ以外、もう彼女を夢ですら救ってくれるものはいない。
冷たさですっかりかじかんだ手をさすりながら、彼女は言われた仕事を淡々とこなしていく。
洗濯が終われば、掃除が待っている。
彼女が受け持っているのは、侍女や女官たちが担当しているような、お綺麗な区域の儀式めいた掃除ではない。
水場であったり、外であったり、誰にとっても辛くてきつい仕事が割り当てられている。
それでも、何かが食べられ、そして暖をとれる屋根のある場所で眠れるだけましだと、娘は考えている。
感謝しているわけではないが、憎んでいるわけではない。
日々は過ぎ、そしていつかは自分もこの地に消えていくのだろう。
どれ程辛い日々を過ごそうとも、自らの手で終止符を打とうとは考えたこともない娘は、今日も仕事をこなすのみだ。



 そもそも、娘は、ここの出身ではない。
いや、正確には、この世界そのものに、彼女の根源を探すことはできない。
どういうわけか、ここではないどこか、から、あちらではないこちらへと、彼女は運ばれてしまったようなのだ。
それを理解するまでには随分と時間がかかった。
言葉を理解できない娘は、どこへ行っても不審な目でみられ、孤児院に入るほどの年齢でもないせいなのか、彼女を庇護する存在はここには何一つなかったのだ。
雑踏に紛れ、生きるためには何でもこなした。
貧弱な体すら売った。
それでも、不思議と死のうと思ったことはなかった。
あちこち流れ、とても人には言えない出来事を潜り抜け、彼女はどういうわけか、下層ではあるが貴族の一人の別宅に雇われることになった。
所謂、施しというやつなのだと、周囲は貴族を誉めそやす。
内心、舌を出しながらの賛辞に、それでも貴族は相好を崩す。
娘は、口が聞けぬふりをして、貴族はますます賞賛の言葉を浴びる。
ただ、言われたことは理解できるものの、発音が覚束ないための保身、からくる擬態ではあるが、それが彼らの中の何かに役立てば幸いだと、そのふりをそのまま通し続けている。
それが、自分のためにもなるのだと、理解しているから。



 変わらない日々を過ごし、いつのころからか見上げなくなった空をふいに見上げた。
違う世界なのに、同じ空が、そこには存在していた。
薄い、紅。
赤い絵の具を溶かしたかのような、空の色。
娘は、それを、それだけを強烈に覚えていた。
そしてまた、彼女の眼前は薄紅から漆黒へと変化していった。



 気がつけば、彼女は知らない場所で目を覚ました。
真っ白い何かが目に飛びこみ、それが自分が昔よく知る施設の中だと理解した。
事故に会い、一年ほど意識を失っていたのだと、両親から聞いたころには、すっかりあの世界の記憶が薄れていった。
背中にある傷が、事故でついたものなのか、あの世界でつけられたものなのかが曖昧になる頃、娘は退院する運びとなった。

もう、娘は薄紅色の空はみない。

再掲載:7.6.2012/1.6.2012

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