11.重いものを乗せた肩(大好き!シリーズ)
 たまたま、ほんとーに、偶然、仕事中の兄さんを見かけてしまった。
スーツ着て、ネクタイ締めて。
そんな姿を見たことがない、というわけじゃなくて、それでも珍しくて。
車道をはさんだ反対側の歩道で、少しぼーっと、兄さんのことを見つめてしまった。
我に返って後悔、というか、小さく鳴った胸の音が気になる。
いつもは百パーセントふざけてて、だらしがなくって、いやらしくて。
時々母さんにはたかれる兄さんは、とても身近。
今までやっぱりこの人は年上で、学生の私とは違う、だなんて思ったことがないのが本当のところ。
だけど、あの時の兄さんは違った。
あの顔を、私にも見せてくれれば。
そう思った瞬間、また心臓がはねあがる。
ふるふると力なく頭を振って、残像を追いやる。
あの兄さんはまやかしで、だまされちゃだめだと、繰り返す。
でも、やっぱり、真剣な横顔がちらつき、私の心臓が暴れだす。
あれが、責任を背負った男の背中ってことなのかな。
もてあました感情を、仕事する男って素敵だものね、という一般論に無理やり置き換え、眠りにつく。
その日見た夢は、誰にも言えない。



「で?」
「や、おなかすいたなぁ、と思ってさ」

仕事帰りにネクタイなんてとっくに取り払った兄さんが、なぜだか私の家のリビングで「待て」をされた犬のように座っていた。
補講で遅くなった私より早く帰る社会人、というのはいいのか悪いのか。

「でも、だめだよー、美夏ちゃん、こんなに遅くに帰っちゃ」

時計の針を確認して、窓の外を見る。
それほど暗闇、になったわけでもないのにと、ためいきをつく。

「遅くなったときは、電話ちょーだい」
「できるわけないでしょ?」

あんなにちゃんと働いているのに、という言葉はもちろん口にはださない。

「だめだめだめー、美夏ちゃんの安全には代えられないから!」

次々とおかずが運ばれ、私は聞き流しながら洗面所へと向かい、手を洗う。
戻った頃には、全員の配膳が終了し、ちゃっかりと自分専用の食器にもられた夕食を見て、目が輝いている兄さんがいた。

「ね?美夏ちゃん、これから塾も行くだろうしさー」
「んー」

私の成績が悪いのは、いくらとぼけてもとぼけきれない事実で、だからこそ兄さんに家庭教師を、といった野望が両親にもあったりはした。
その兄さんにとってはおいしい状況を壊したのはやっぱり兄さんで、私はとっとと、大手の塾へと行かされる予定だ。

「で、で、息抜きに夜景なんて見に行ったり」
「制服の少女を連れて?」

明らかにおかしくて、おそらく職務質問されるだろうし。

「や、じゃあ、ごはん食べに」
「制服で?」
「んーー、じゃあじゃあ」

テーブルの真ん中にどん、っと兄さん好物の梅干が大量に入った容器を置き、母さんが兄さんを睨みつける。

「ご心配なく、私が送り迎えしますから」
「ええ?でも女性の二人歩きは」

母さんはこの交通が便利な土地で、すっかりペーパードライバーだ。

「こんなこともあろうかと、ペーパードライバー講習に行ってきましたから」
「「ええ??」」

ずっと黙っていた父さんも、もちろん直樹兄さんも、当然私も、そろいもそろって母さんを見ながら絶句する。

「ということで、美夏の送り迎えは私がしますから」

母さんには弱い父は黙り、やっぱり母に弱い兄さんも黙り、思いっきり空気を読んだ私も黙る。

「でも〜」

小さく反抗した直樹兄さんの声は無視され、和気藹々のような食事は終了する。
その頃には、人に言えないぐらいの夢を見てしまった私の中にあった、兄さんの残像はすっかりさっぱり、どこかへ消え去ってしまった。
でも、あれをもう一度見せられたら、私の中のバランスが壊れてしまいそうで怖くなる。
それが、素人の運転とどちらがどれほど怖いのかは、判断基準に迷うところだけど。


6.11.2009update/7.3.2010再録
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