16.大丈夫(MyDoctor)
 夜中に飛び起きるようにして上半身を起こし、ドキドキする心臓を両手で抑える。
気が付けば頬には涙が伝わり、あれは夢だったのだとそんなところで実感をする。
若先生と暮らすようになって寝れない夜は少なくなっていって、それでも時々恐い夢を見る。
そんなときは隣の俊也さんの部屋の前までいって、その中に俊也さんがいてくれるのだと、見えないのに実感をして安心する。
今日も無意識のように扉の前に立っていた。
何の変哲もないドアノブを見つめ、きっともう寝入っているだろう俊也さんのことを想像して落ち着かせる。
ずっと早鐘のように打っていた心臓が落ち着いて、恐い夢もただの夢だったのだと、もうその記憶すら薄っすらとしたものへ変化していく。
私にとって、若先生は安定剤みたいなものだ。
これ以上迷惑を掛けたくなくて、それでも気がつかれないようにこうやって俊也さんに依存してくことが止められない。
私はいつからこんなにも弱くなってしまったのか。
一人ぼっちの家で、一人きりの食事で、もうほとんど覚えていないお父さんの顔と、いつもこちらを軽蔑するような目で見るお母さんがいた。
私はこんな風に優しくされるような人間じゃないのに、どこまでも優しい俊也さんは私を甘やかしてくれる。
私は汚い。
お母さんが私を嫌ったのは、私が醜い人間だったからだ。
だからきっと、いつかは先生に嫌われる。
そうなる前に離れなくちゃいけなかったのに、私は甘えたままこんな風に暮らしている。
早季子さんも、大先生も、早季子さんの旦那さんも優しくて、ちっぽけな私を放っておけないだけだ。
離れなくちゃだめ。
そんな風に思ったら、止まっていた涙が再び溢れ出す。
恐い夢じゃなくって、本当の現実。
そのほうがずっと恐くて、私はその場から立ち去れなくなる。
夜はずっと深くて、僅かばかりある灯りでは自分の指先すらはっきりとしない。
だけど、今は先生がいるのだからと、再び気持ちを落ち着かせる。
突然ガチャリと物音がして、びっくりして涙も恐い気持ちもどこかに飛び去ったかのようにひっこんだ。
音にあわせて振り向くと、たった今つけられた玄関の灯りの下に俊也さんがいた。
今日はまだ帰っていなかったのだと、さっきまでいもしない俊也さんの部屋の前で安心していた自分が恥ずかしくなる。

「香織ちゃん?」
「お、おかえりなさい」

照れるような優しい笑顔を浮かべて、俊也さんがこちらへ近づいてくる。
そういえば当たり前だけどパジャマだったのだと、恥ずかしくなって俯いてしまう。

「どうしたの?トイレ?」
「あの、えっと、喉が渇いて」
「そっか、今日は暑いから。もう飲んだの?」
「いえ、まだ…」

頭を撫でながら俊也さんが言い聞かせるかのように優しく訊ねてくれる。
この優しさに縋って、全部丸ごと寄りかかってしまいたくなる。
少しひやりとした感触が頬を撫で、見上げると俊也さんが少し厳しい顔をする。
私の図々しい願いが聞こえてしまったみたいで、慌てて顔を伏せる。

「泣いてたの?」

目尻をなぞる親指が気持ちがいい。

「恐い夢を見て…」
「話してごらん、恐い夢は話せば嘘になるって言うよ」
「いえ、あの…。もう忘れちゃったから」

恐い夢は忘れたけれど、私にとってそれ以上の現実はきっといつかはやってくる。

「ならいいけど、一緒に冷たいものでも飲もうか」

家の中なのに、私の右手を握り締め、笑顔の俊也さんにひっぱられていく。
ほんのり伝わる体温が嬉しい。

「香織ちゃん、大丈夫?」
「あの?」
「悲しそうな顔をしてる」
「……恐い夢のせいです」

全部夢に押し付けて、私は笑顔を作る。
サラサラと私の髪をすきながら、突然俊也さんが私の頬に口づける。

「先生!」

咄嗟に後ろに下がろうとするのを、俊也さんの右手が阻止をする。

「逃がさないから」

俊也さんの言っている意味がわからなくて、だけども頬に残る感触が鮮やかで、私は何も言えなくなる。
私がずっとここに居ていいような気にさせられてしまう、俊也さんの笑顔と、握られた手の温度。
先生の言葉は魔法のようで、夢の中にいるように温かい。
これが夢なら覚めないで欲しい。
私が俊也さんを好きだという事は確かなのだから。


7.18.2008update/12.3.2008再録
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