「チョコは?」
「くれるの?ありがとう」
勢いよく右手を差し出した私に、大袈裟にためいきをつく物体が一つ。
あたりまえのようにしっくりと馴染んだ直樹兄さんだ。兄でもなんでもないのに、いまだに兄さんと呼びつづけているのは、この人の持つ邪まなオーラを寄せ付けないようにするため、でもある。
「ちょこーーちょこーー、ばれんたいんーー」
駄々っ子のように喚き始めた兄さんは、先日済んだばかりのとある国民的行事、のことを口にしながら本気で悔しがっている。
「や、とーさんにはあげたし」
面倒くさい行事だなぁ、なんて言いながらも母親と私からのチョコを密かに楽しみにしている父さんには、ちゃんと二人からということでガトーショコラを焼いてデザートとして食べてもらっている。もちろん、どちらかというと自分達のおやつがメインを占めているそれは、親子三人でおいしくいただいた。
だから、私にとってみればバレンタインなどはクリスマスやお正月と一緒で、親子で楽しく過ごすためのイベントに過ぎない。
これだけ、兄さんが騒いだとしても、だ。
しかし、毎年毎年しつこいぐらいに言っていて良く飽きないよな、と、ぐすぐす言い出した兄さんを横目にせんべいをかじる。
ぱりん、と割れる音が食欲をそそり、ごはん前だというのに止まらなくなってしまいそうだ。
「ちょーーこーーーーー」
恨みがましい目でこちらを睨みつけている兄さんは、毎年のように諦めそうにない。
この鬱陶しさについうっかり仏心をだしてはいけない。
そんな失敗は一回おかせば十分なのだから。
「兄さんにはチロル一つだってあげない」
つい、うっかり、私が義理チョコだとはっきりとわかるチョコレートをあげてしまったが最後の、兄さんのやましいいやらしい攻撃を思い出す。
あれは、やっぱり明確に犯罪だと思う。情で表ざたにしなかったのが悔やまれる。
今思えば前科でもなんでもつけてしまえばよかったのだ、この能天気男に。
「麦チョコ一粒だっておしい」
「美夏ちゃんのいけず!!!!!」
本気で悔しがって、だけれども我が家のこたつから出て行く気配のない兄さんがじりじりと距離を詰める。
ああ、この人は本当に懲りない人だなぁ、と思っていたらお約束のように扉が開いて、お盆を持った母さんが現れる。
素晴らしい平衡感覚で、お盆の上にのった液体の入ったマグを揺らさず、結構本気で兄さんの上に垂直にそれを落とす。
ごいん、という鈍い音と共に、兄さんが無言で頭を抱えている。
ほほほほほ、という高笑いと共に、暖かい湯気のでるマグカップが三つほどこたつの上へともたらされる。
「甘い?」
「ココアにチョコを足してみたんだけど、一応バレンタインっぽく」
「ああ、チョコチョコうるさかったからちょうどいいんじゃない?良かったねーー、ほら、チョコ」
涙目で、だけれどもやましいところを自覚している兄さんは、しぶしぶマグを手にとる。
まだ諦めない、という表情でこちらをちらちらと眺めながら、甘い、と呟いている。
本当に諦めの悪い人だ。
「来年は考えといてあげる」
やっぱり、最後はどこか兄さんに甘い私がなんとなくなんとなく助け舟を出してみる。
しょぼんとしていた兄さんは、それが嘘だったかのように生き生きとその餌に喰らいつく。
「チョコ?来年?本命?本命だよね!!!」
叫んで踊りだしそうな兄さんに、冷静に事実だけを告げる。
「や、義理チョコ、良くて友チョコだし」
「いやいやいやいやいや、美夏ちゃん照れなくても」
あくまでもポジティブシンキングの兄さんが、再びにじり寄る。
ごいん、と、先程よりもやや高い音をさせ、兄さんの頭がお盆ではたかれる。
笑っていない目で母さんが、直樹兄さんを脅迫するかのごとく畳み掛ける。
「いいですね、直樹さん、信用してますから、信頼してますから、あなた年上なんですから」
「え?えええ?うーーー、えっと」
「わかりましたか?何かあったら、わかってますね」
「……はい」
まるきり信用していない風に、母さんはどっかりと直樹兄さんと私の間に座り込む。
来年のチョコは、今年一年の兄さんを見て考えることにしよう。
恐らく、再び母さんのお盆の餌食になる未来の方が想像しやすいというのが、ちょっと悲しいのだけれど。
2.19.2008update/4.14.2008再録