01.軋むソファーに背をあずけて
 上品な香りが辺りを包み、一瞬だけ昔に戻ったような気持ちになる。
私専用のカップに入れられた紅茶を口に含みながら、ゆっくりとソファーの背もたれに体重を預ける。
何もない部屋で、このソファーとテーブルだけが、ここで人が生活をしているのだということを感じさせてくれる。
畳の目以外見えない寝室も、やかんしか置いてないようなキッチンも、とてもじゃないけれど、人が満足に生活しているとは思えないほど殺風景だ。なのに、こうやって紅茶だけはきちんとしたものをいれてくれるだなんて、彼の持っている二面性を表しているようでとても興味深い。
だけど、その好奇心も今日限りのものにしないといけない。

「引っ越すんだ」

まだ熱くて、少しずつしか飲めない紅茶のカップをもちながら無理やり笑ってみせる。
相変わらずこちらに興味があるのかわからにような顔をして、彼は自分用に入れた冷たい麦茶を飲み干している。
彼は、どうやら年中冷たいものしか飲まないらしい、ということに気がついたのは最初の頃で、だからこそこうやってわざわざ私のために暖かい飲み物を用意してくれる程度には、私のことを思ってくれているのだと自惚れる事ができた。

「そっか……」

何も言わずに空になったコップだけを見つめ、その表情は僅かにも変化することがない。

「うん、そう」

元々この街出身ではない私は、就職を決めるさいに、とても安易に恋人であるこの人がいるこの場所を選択してしまった。当時はそれが最適のことだと思っていたし、たぶん今でもあの状態に置かれたら同じ選択をしてしまうかもしれない。
だけど、友達も家族も誰もいないこの街で、一人ぼっちで暮らしていくには、私の精神はそれほど自立していなかったようだ。
その寂しさの穴を埋めるために求めた彼との生活は、彼自身の多少偏屈とも言える程の生活スタイルと、他者に依存も固執もしないその性格によってあっさりと拒絶されてしまった。
どうして受け入れてくれないのかを悩んだ2年間。
私はようやく、彼に依存しようとする心を断ち切る決心がついたのだ。
だからこその決別。
これ以上、私が欲張りにならないように。これ以上拒絶されて私が傷付かないように。
最後まで卑怯者の私は、私を守るために彼の側から離れようとしている。
ゆっくり軋むソファーから体重を離し、カップをテーブルの上へと置く。うっすらと積もった埃と、それを訪れるたびに綺麗にしていた私自身の日常が思い浮かび、ためらいそうになる。
だけど、最後まで口を開かない彼に、私は本当に最後の未練をここへ捨て去る決心をする。
振り返らない。
私の思いは全て、あのソファーに置いてきたのだから。


12.6.2007update/3.28.2008再録
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