15.不安な気持ちをはんぶんこ
 香織ちゃんとの生活は静かに時を重ね、徐々に変化していく彼女の姿を目の当たりにすることとなった。
嬉しい反面、どこか自分の手を離れていってしまいそうで不安になる。
早季子さんの教えが良かったのか、身の回りに気を使い始めた女の子は、あっという間に綺麗な女性となる。でも、心はいまだにうずくまって耐えている小さい女の子のまま。だからこそ、まだ自分にも彼女に対して何かができるのではないかと、安堵する気持ちが燻っている。

「俊也、さん」

電気を消してテレビの灯りだけでぼんやりソファーでくつろいでいる自分の視界に、突然香織ちゃんが入り込む。時計はすでに午前1時を回っている。明日を考えれば、どちらも寝なければいけない時間だろう。自分にしても香織ちゃんにしても、仕事や勉強以外でこれほど遅い時間になることはなく、だからこそこうやって見もしないDVDを眺めながら考え事をしていたのだから。

「ん?トイレ?」
「……いえ、あの、ちょっと気になって」

嬉しい反面、彼女に気を使わせてしまったことを後悔する。

「ごめん、もう寝るから」
「あの……」
「なに?」

パジャマの裾をぎゅっとつかみながら香織ちゃんが俯く。何かを言いよどむその姿は、自分の中にある幼い香織ちゃんの姿そのままで、胸が苦しくなる。手招きをしてこちらへと呼び寄せ、なおもいい辛そうにしている香織ちゃんが話し出すのを待つ。

「あの……。私、何か気に触るようなことをしてしまいましたか?」

唐突に彼女が言い出したことが、あまりにも突拍子もなく、思わず凝視する。その視線に耐えられなかったのか、再びパジャマの裾を握り締め、俯いてしまう。サラサラと黒い髪が頬へとかかり、暗がりの中でも白い肌とのコントラストに思わず違う部分が反応してしまう。

「香織ちゃん、どうしてそんなこと思ったの?」

香織ちゃんは自分に対しても親父に対してもものすごく気を使う。たぶん、早季子さんに対しても遠慮をしているだろうけれど、そんなものはお構いなしに垣根を破壊していくのがあの人であり、そこは同性の強みもあるのだろう。羨ましいような気がしないでもない。 だから、こうやって時々気を使うあまりとんでもない方向へと思考が進んでしまうことがあり、たびたび方向修正をしてやらなければならなくなる。

「最近、帰りが遅いですし」
「ああ、医者が一人産休をとってね、補充要員がうまくつながらなかったんだよ。だけど、もう大丈夫だから今日は早く帰ってきたんだけど」
「あの、それに…」

なおも言い辛そうな彼女は、俯いたまま顔を上げてくれない。幾ばくかの沈黙の後、ようやく顔を上げた彼女は、いつのまにか目に涙を溜めていた。
当たり前のようにその涙を指で拭いさり、彼女の癖のない髪の毛に指を通す。

「正直なところ、不安、なんだ」

いつもなら絶対に言えないことを口走る。
彼女の涙にやられたのか、この雰囲気にやられたのかはわからない。だけど、いつかはどこかで吐き出したいと思っていた心。それが香織ちゃんの前であることが情ないけれど。

「不安……ですか?俊也さんが?」

目を見開いて驚く彼女は、自分の悩みを一瞬忘れ去ってしまったようだ。それだけ、自分が言い出したことが意外だということなのかもしれない。

「不安だよ。もちろん。香織ちゃんはこんなにわかくて綺麗で」
「そんな…」
「それに引き換えひと回りも違う自分はすでにおじさんだし、加齢臭が心配だし、体力もなんだか低下してるし」
「いえ!若先生はおじさんじゃないですし、匂いだってないですし、まだまだずっと元気です!」

力いっぱい念押しするように正真正銘若い女性に言われると、返ってこちらの年齢を強調されたようで言い出しておきながら少しへこむ。

「だから、いつかは若くてかっこいいやつに香織ちゃんをさらわれちゃうんじゃないかって、ね」

彼女が同級生の話をするたびに、胸が焼けるように痛んだ。入学当初あんな風に彼女の学校を訪れたのも、幼稚な自分の幼稚な行動だ。ただ、彼女に触れられたくないと、それだけの思いであんなことをしでかした。自分の器が思った以上に小さいことを思い知らされた。

「そんな、そんなこと……、ありえないです」

どちらかというと弱弱しい印象を与える香織ちゃんが、唇を引き結んで厳しい顔をする。それだけ、自分が言ったことに憤っているらしい。

「ごめん、だけど、香織ちゃんはどんどん綺麗になっていくし、それに引き換え自分はどんどん年をとっていくし」

言っても仕方がないと、今まで敢えて口に出さなかった言葉がぼろぼろと零れ落ちる。

「このままでいいのかなぁ、なんてね」

この立場がいやなわけじゃない、彼女を諦めるつもりもない。だけど、一生どうにもならない年の差は、思った以上に自分の中で引け目を感じていたようだ。おまけに、彼女の境遇につけ込んだ、という負い目もあわせて、どうにも彼女に対しては複雑な思いを抱いたままだ。

「私は、私だって、不安です」

半ばやけ気味に吐露した自分の隣で、香織ちゃんが静かに話し始める。

「だって、若先生は大人で、格好良くて、いつも大人の女の人がたくさん回りにいて」

まったくもって前半も後半も思い当たる節がない。後ろ向きで逃げ出しそうだった気持ちが、急に目の前の現実に向き合わされたようだ。

「私……、何にもできない…」

その言葉に色々な意味が含まれているようで、正直驚いた。隣にいる彼女は、思った以上にずっと大人になっていて、自分はそれに気がつかないようにそっと目を瞑っていたのだと気がついてしまったから。どこかで彼女を子ども扱いしながら、香織ちゃんには自分の気持ちなどわかるはずはない、と、おごっていたのかもしれない。

「だったらさ、一緒に悩もう」

目尻に微かに残った涙を親指でふき取りながら、彼女の目を覗き込む。

「こんな情ないやつだけど、それぐらいならできるから」
「先生……」
「で、できれば、だけど、これからもずっと一緒にいて欲しい。どこかへなんて行かないで欲しい」
「私、私こそ若先生の近くにずっとずっといたいです。でも…」
「でも、は無し。自分のこと嫌い?」

ものすごい勢いで左右に振られた頭は、それにともなって細い黒髪も舞い上がり、再び肩の上へと落ちていく。

「だったら、お願いだから、傍にいてください」

小さく頷いた彼女の唇にどさくさ紛れにキスを落とす。瞬時にして真っ赤になった彼女の頭を数回撫でる。こうしていると、やっぱり幼い頃の彼女を思い出してしまい、罪悪感を感じてしまう。

「それから、若先生って言わないでって言ったよね?」

香織ちゃんは夢中になると、つい癖で昔の呼び名がでてくる事が多い。今回もその通りに途中からずっと「若先生」と呼ばれっぱなしだ。

「あ、あの……、ごめんなさい」
「ペナルティは後で考えるとして、今日は遅いからもう寝よう」

こんな雰囲気の後も、別々の寝室へと向う二人の関係が、所謂普通の夫婦とは言えないことは理解している。
だけど、自分たちにとっての普通は今のこのゆったりとしたペースなのであって、ほかと比べてあせらないようにだけは自戒しておかなければいけない。どれほど欲しくとも、その結果彼女を傷つけるようなことになってしまっては意味がない。
やっぱり、香織ちゃんに依存しているのは自分の方だ。
去っていく後姿に、見られないことをいいことに縋るような視線を送る。
まだ早い。
彼女との時間は、これからなのだから。
8.29.2007
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