13.やさしいのはいや、うんと苦しいのがいい
 よく考えれば、それはただ温めただけのレトルトのおかゆ。
だけど、そのときの私にとってはとても特別で、ゆっくり噛み締めたその味も何か特別なものに感じられた。
あの時は、幸せで、幸せで、周りのことなど目に入る隙などなかった。
ただ、彼が傍にいればよかった。
そう、たったそれだけのことだったのに。



 いつかはやってくるだろうと覚悟していた現実は、思いのほかあっけなくやってきた。
怒り狂って手がつけられなくなるだろうと思っていた自分が、想像よりずっと冷静だったのが不思議だ。
もっとも、ベッドの上に寝転がる真っ裸の男女、というものが第三者からみれば滑稽だったせいもあるかもしれない。すっと血の気がひいていく音がして、目にした瞬間感じたたぎるような怒りはどこかへと消え去っていった。
私の目の前には、タオルケットで頭まで隠れたつもりになっている女と、情ないものをぶら下げてさらに情ない顔をした男がわけもないことを喚いているだけだ。

「で、言い訳は?」
「いや、違うんだ」
「違うって何が?」

どこかで聞いたような陳腐なセリフをはく男が、ついさっきまでこの世で一番大好きな人間だったなんて、と、それ以上あほな言い訳を繰り返さないうちに睨みつける。
ベッドの上に正座したままブツブツと「ちょっとだけ」だの「まだやってないし」だの、言い訳にもならないことを呟いている。

「悪いんだけど、言い訳を聞くつもりはないから」

一息で言い切ると、一気にタオルケットを剥ぐ、必死に抵抗しているのか手足をバタバタさせ、その反動で彼氏がベッドから転がり落ちる。

「悪あがきはよしてくれない?かわいいかわいい妹ちゃん」

顔だけを必死に隠していた彼女は、ピタリと動きを止め、裸の上に布を巻きつけこちらを見上げる。

「……どうして?」
「知らないとでも思ってたわけ?あれだけ派手に動いておいて」

落とされた彼は、睨みを利かせたせいなのか、大人しく床の上に正座している。

「本当に昔から私のものをとるのが好きよね、あんたって」
「……」
「人形、ぬいぐるみ、ハンカチにはじまって、私が買ってもらった服だって、あんたが先に着てたものね」
「だって!おねーちゃんばっかり!」
「嘘を言わないで、うちの親はいつも平等に買い与えていたはずよ。あんたが下だからってお下がりなんて着たことないでしょ?」
「でも」
「私はあるわよ、あんたのお下がりをね!!!」
「それは…」
「あんたには甘かったものね、あの人たち、で、最後がこれ?」

うな垂れたままの彼氏を指差す。
本当にこんなものに惚れていただなんて、昨日までの自分はどうかしていたとしか思えない。

「ま、いいけど、私のお古でいいのなら差し上げてよ」

プライドの高い妹はピクリと眉を上げ、明らかに嫌悪の表情を現した。

「だけど、責任をとってからにしてちょうだい」
「責任、って」
「私達が婚約していたことを知っているわよね?当然」

家族同士の会食、などという行事に彼女も同席していたのだからあたりまえだ。だけど、私はわざとゆっくりとそのことをあげつらう。

「婚約解消って、ただの恋人同士が別れるほど簡単じゃないのよね」
「そんな!別れるなんて!」

唐突に縋ってきた彼氏を振り払い、散らかっている下着を投げつける。

「で、あなたってその原因になったわけよね。不貞の相手」
「……訴えるってわけ?」
「ふふふ、そんな面倒なことしないわよ。あなたの両親にお知らせして適当な慰謝料を横流ししてもらうだけよ」
「いや!パパとママには言わないで!」

両親から溺愛されている彼女は、その愛情を後ろ盾にやりたい放題を繰り返していた。もちろん、両親もやんわりと諌めはするけれど、その程度で聞くような人間に出来上がってはいないのだ。逆に、割と頑固で譲れない事があればしょっちゅう両親とも小競り合いを繰り広げてきた私は、両親にとっては少々手に余る子どもであり、だからこそ私はいち早くあの家から自立したのだ。大学、就職と、両親の言う事などまるで耳を貸さずにやってきた私は、今はそれなりのポジションでそれなりに満足をしている。

「だって、あなたお金ないでしょ?お給料はぜーんぶお小遣いだものね」

まともに就職したはいいものの、給料だけでは生活できないと、実家に居座りながらもさらにお小遣いをもらっている身分なのに、彼女は常に金欠状態だ。理由は、床一面に散らばっている彼女の衣服をみればわかりそうなもので、一目でわかるブランドものにそのお金をつっこんでいるのだ。

「それに、あんたにもきっちり請求しますからね」
「やだ!別れない、これは気の迷いなんだから、ね、ね、考えなおしてくれよ」
「うるさいわね、お金の算段でもしたら?」
「いやだよ、こんなやつ好きでもなんでもないんだから、ちょっとした過ちなんだから、ね」

情なく縋りつく彼氏の言い分に、妹が激怒し、あちらはあちらで言い合いがはじまった。

「あ、そうそうあとでしらばっくれたら、先ほどとった素晴らしいヌード写真を、どちらの両親にもばらまくつもりだから」

痴話喧嘩をやめ、こちらを鬼でも見るかのような目で睨みつける。

「あと、これもいらないから」

ぽいっと彼氏の足元に合鍵を投げ落とす。
今だ服を着ていない二人は、私を追いかけることもできずに、妹のヒステリックな声とバカ男の縋る声だけが聞こえる。
玄関のドアを閉じ、早足で階段を降りる。
足元が滲んで見えなくなる前に、明るい場所へと移動したいから。
大通りへたどり着いた頃には予想通り私の足元は半透明な世界となり、たぶんこちらを振り返っているであろう人の姿すら満足に視界に捉えることができなくなっていた。
後から後から流れ落ちる涙を拭う事もせずに、まっすぐと道を進む。
あんなやつでも、やっぱり私は愛していたのだと。体のどこかが引き裂かれるような痛みを伴い実感する。
彼の不貞を知ったのは、ほんのささいなきっかけだった。
その相手が実の妹だと知るのも、それほど難しいことではなかった。
だからこそ、あいつらを忘れ去るためには自分に一番ダメージが大きな方法でやらなくてはだめだと、半ば取り付かれたように証拠をそろえ、確証を持って今日踏み込んだのだ。
周囲の雑音も、店から流れる音楽も、全てが私を素通りしていくように流れていく。何も聞こえない、何も聞きたくない。
もっと、愛せていたなら、こんなことにはならなかったのかも、なんて、有り得ない想像をしながら、それでも足は真っ直ぐに家へと向う。
これだけ苦しめば、明日は違う明日になるはずだ。
そう言い聞かせる。
中途半端な優しさに縋って、さらなる苦しみに我が身を沈みこませないように。
私は、私を苦しめる。


9.3.2007update/10.23再録
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