「うふ、お泊り」
「キモチワルイ、中年男がそんなことをしたってかわいくともなんともないし、っていうか、なんて言った?」
美夏ちゃんひどい、とか呟きながら畳の上にのの字を書いている兄さんは、たまにさらっととんでもない事を言う。それをうっかり聞き逃したりすれば、同意したものとみなされてトンデモナクひどい目にあわされてしまうと、悲しいことに経験上知っている。だから些細な事でも必ず聞き返す癖がついているのだけれど、今のそれは些細なんてものではなく、それこそものすごくアホでとんでもないことを口走ったような気がする。
「だって、今日ご両親いないでしょ」
「それをどうして!!」
「…内緒」
立てた人差し指をかわいらしい仕草で唇に当て、秘密のポーズをとる。かなり不気味、だけど、そんなことは今この場では問題じゃない。
我が家のスケジュールが敵に漏れまくっている、その事実が大変重要かつ緊急を要する懸案事項だ、ということだ。
父さんと兄さんは接点がないし、お互いメールでヤリトリをしているなんて考えられもしないから却下だし、お汁粉の件以来兄さんを問題人物ときちんと認識した母さんが漏らすとは思えない。だけど、家にはそれ以上の人間はおらず、だからといって私のトモダチにちょっかいをかけているとも思えず、思わず腕組みをして考え込む。兄さんは浮かれた気分でバッグの中からパジャマだの歯磨きセットだのをいそいそ出してはにまにましてる。
駄目だ、このままだと兄さんのペースに巻き込まれ、有耶無耶の内に貞操の危機に瀕してしまう。
そもそも会社帰りに家へ来る、なんていいだしたときから嫌な予感がしていたのだ。よりにもよって両親がそろって旅行に行ってしまう日に。
以前の能天気にも兄さんに全幅の信頼を寄せていた時ならば、わざわざ敵に塩を送るようなマネをして兄さんを呼び寄せていたかもしれない母さんも、さすがにかなり神経を尖らせている。だから、今では家の中では絶対に二人きりになることなんてないという徹底ぶりだ。一方、兄さんと言えば隙あらばと、些細なチャンスも見逃さないようなおじさんと成り下がってしまった。そんな兄さんに、電話で両親がいないからだめ、などと言えば意地でもこの家へ入り込もうとするだろうし、だからといって他の用事を作って家へ越させないようにするには自分は嘘が下手すぎる。だいたい高校生の身分でそうそう外に用事なんてできるはずもなく、こんなことだったら友達の家へ泊ればよかったとものすごく後悔する。
「美夏ちゃん」
男モードで迫ってくる兄さんは、本当言うとちょっとだけいい男だ。
あと少しのきっかけがあればころっと兄さんの側へ転んでしまってもおかしくないぐらい、私は兄さんのことが嫌いではないし。
でも、こんな風にどさくさ紛れにそんな風になるのは嫌だ。矛盾する気持ちが胸の中でグルグル渦巻いている。そんな中でも兄さんは私との距離をじりじりと縮めてくる。
今までにない緊張感と、冗談のように拒否できる雰囲気ではなくて気持ちだけが焦る。
きっと、ここで手酷い扱いをしたところで兄さんが私のことを嫌いになることなんてない、などと自惚れたことを思いながらも、兄さんのペースに乗せられてしまってもいいかもしれない、なんて思う自分もいたりして、金縛りにあったみたいに動く事ができないでいる。
後少し、もう少し近づけば兄さんに触れてしまう、そんな絶妙な距離で、玄関のチャイムが鳴る。
お約束のような出来事に、今がチャンスとばかりにしゃきっと立ち上がる。がっくりとうな垂れた兄さんを尻目に、ドキドキした心臓を押さえながら玄関の方へ走っていく。
ドア越しに確認した訪問者は、叔母さん、母さんの妹さんだった。
ぶすっとした兄さんは、それでもなんとか大人の体面をたもちつつ、膝を抱えて部屋の隅っこにいやみったらしく座り込んでいる。
「久しぶり、美夏ちゃん。全然遊びに来てくれないから叔母さん寂しくて」
煎れ立てのお茶を口に含みながら、叔母さんが話す。
確かに、高校に入ってからはイロイロ忙しく、叔母さんの家へは随分ご無沙汰だ。叔母さんと母さんはとても姉妹仲がよく、それに伴って両家の付き合いもそれなりに濃い。お互い割と近いところにすんでいる、ということと子供同士の年齢がそう遠くもない、ということも重なって、一緒に遊んだ事も数え切れない。
「で、どうしたの?今日母さんいないんだけど」
「いや、そのことなんだけど」
未練がましくこちらをチラチラと窺っていた兄さんはいつのまにやら私の隣に座っている。
「姉さんに頼まれて」
「頼む?ですか?何を?」
母さんが叔母さんに頼むことなんて思い浮かばなくて思い切り首が傾く。
「最近危険人物がウロウロしているから、できれば泊っていって欲しいって」
「危険人物?」
思い当たる節がないものの、言いながら視線は隣にいる兄さんに向いてしまう、いや、無意識だけど。
叔母さんも叔母さんで思いっきり兄さんを怪しい目で見たりしている。やっぱり雰囲気でこの人が危険人物であると、感じ取ってしまったのだろうか。
叔母さんはにっこりと笑いながらも、厳しい視線を兄さんに向ける。
「でも良かった、最初は冗談だと思ってたんだけど、どうやら本当にいたみたいね。危険人物」
ははは、と引き攣った笑いを浮かべ、兄さんが手早く荷物をバッグの中に詰めなおしている。こういうときの退散の仕方は見習いたくなるほど素早い。
結局、3分もしないで兄さんは挨拶もソコソコに立ち去っていった。
叔母さんと二人残された私は、どこかで安心してどこかでがっかりしている。
やっぱり、二人きりのあまい時間なんて、私たちにはまだまだ遠き先のことだ。
いや、そもそもそんな時間は未来永劫こないかもしれない、なんて兄さんが聞いたら絶叫しそうなことを思う。
今日のことを念頭に置き、またさらに気を引き締めなくてはいけない、なんて思ったことは兄さんには内緒。
これより攻防戦は激化の一途をたどることになる…かもしれない。
6.1.2007update/8.11再録