「いったいこれは何の嫌味だ?」
ありったけのアロマキャンドルが点けられた薄暗い室内の中、足元から顔面を照らされている状態の彼氏が呟く。
「別にぃ」
思いっきり訳はあるけれど、強がってそんな事を言って見せた私は、実はあまりにも混ざり合ったアロマの匂いにやられていたりもする。
元々香水や芳香剤の匂いが嫌いなのに、複数のアロマキャンドルを同時に点火する行為は無謀ともいえる。咳き込みそうな匂いを堪えながら窓の外の星を見上げる。
ああ、今日は満月だから月が眩しすぎるのだな、と、そんなことをぼんやり考えていると、彼氏がたまらなくなったのか勢い良く窓を開けた。
流れ込んできた新鮮な空気に、瞬間炎が揺れ、私は思わず深呼吸をする。
「あのな、これはなんだ?」
「地球に優しいキャンペーン中」
「俺には優しくないだろう、少なくとも」
あたりまえだ、私以上に匂いに敏感な彼は、薄暗い室内の中に彼女がポツンよりもなによりも、アロマにダメージを受けている。きっと通勤用のスーツにも香りが引っ付くに違いない。自分もその危険を背負っているのにいい気味だと思えて、少し気分がよくなる。
片端からろうそくを消して回った彼は、なんの躊躇いもなく照明のスイッチに手を掛ける。
瞬時にして明るくなった室内に慣れなくて、一瞬目を瞑る。
「メシは?」
「食べた」
「俺のは?」
「知らない」
お互い合鍵を持っている私達は、立地条件の関係上彼氏の家に来ることが多い。今日もご多分に漏れずこいつの家にいるのだけれど、こうやって私が先に部屋へと上がりこんでいるときにはご飯を作っていることが多くて、彼はそのことを指してそうやって訊ねているのだとは思う。
だけど、今日は私はあなたの家政婦じゃない、なんてフレーズが浮かんできたりして、あまりかわいくはない。
「まあいいや、なんかある?」
「さあ、あなたの家でしょ?」
鈍い彼にも本格的に機嫌を悪くしているであろう私に気がついたのか、素早くスーツを脱いでこちらへと近づいてくる。
「あのな、何も言わないでわかってもらおうと思うなよ」
何かあっても全てを飲み込んで、しかも消化しきれなくて途中でぶちきれる私の性格を良く把握している彼は、こうやって適当に毒だしをさせてくれる。
だけど、今日に限っては素直に話してしまうのもあまりにも癪で、口を思いっきり引き結んでしまう。
「腹減ってるんだけど」
「食べたら?」
レトルトだろうと一応家へ帰ってご飯を食べたいらしい彼は、とりあえず白米があればなんとかなるように色々な物を常備している。だから、最後まで無情になりきれなかった私は、きっちり炊飯ジャーにご飯を用意する、などという事をしてしまっている。
案の定それに気がついた彼は、棚からレトルトカレーを取り出して、湯せんに掛ける準備をしている。
「今日はなんだ?生理前のアレか?」
確かにその時期には機嫌が悪くなるような気がしなくもないけれど、こんな風に陰険なやり方はしない。と、自分で言っておきながらあまりにも暗い抗議の仕方に落ち込んでしまった。
「それともまた失敗したのか?仕事で」
不器用な私はそれを自覚しているおかげで大きな失敗は犯さないものの、ちょこちょこと小さな失敗をやらかすことが多い。だけど、それはひとしきり聞いてもらって、こいつじゃなくって女友達にだ、なんとかできるレベルのものだ。こんなことは起こさない。
「じゃあ、なんだ?」
アツアツのカレーをご飯の上へかけ、適当に取り出したビールで流し込み始めた。
「高橋さん、って言ったらわかる?」
カレーをすくう手が止まる。
まだ残るアロマキャンドルの香りを、軽く凌駕する匂いを発散しているスプーンをもったまま固まっている。
人名辞典の中ではきっと上位に来るに違いない苗字の高橋さんに、彼はきっちり覚えがあるらしい。
で、私の頭の中の高橋さんと、彼の頭の中の高橋さんはたぶんきっと一緒なのだろう。その人にどういう感情を抱いているかはきっと正反対なのだろうけれど。
ようやくカレーの乗ったスプーンを皿の上へのせ、彼が私の傍へとやってくる。
「どうして知っている?」
「会ったから」
ものすごく嫌そうな顔をして、それでも何とか平静を保ちながら私の肩に両手を置いている。
「どこで?」
「モトカノでしょ?」
どうしてそれを、という顔を思い切りして、彼が再び動きを止める。
「だって、自分で言ってたもん。モトとは言わなかったけど。それに今日つけまくっていたアロマキャンドルって彼女がくれたものだし」
そう言うと彼は無言で全てのキャンドルをゴミ箱へと入れ始めた。あちこちにちりばめられたそれらは、無駄のない彼の動きでスムーズにゴミ箱へと押し込められていった。
「私がいないと殺風景でしょ?良かったらこれ使ってっていってたから、言われた通りにつけてあげたんだけど。気に入らなかった?」
私が家へ入る前へドアの前に立っていた彼女。
脇にはリボンのついたバスケットを抱え、その中にはキャンドルやら色々かわいらしい雑貨が盛り込まれていた。
私が現れた時、私と彼との関係を聞き出す前にそう言った彼女は、私を見て勝ち誇ったような顔をしていた。
「いや、気に入るとかいらないとかじゃなくて、あいつに何か言われたのか?」
「別に、またくるって言ってたけど」
かなり嫌そうな顔をした彼は盛大にため息をついた。
私の頭を軽く小突きながら、彼はまたためいきをつく。
「あのな、今はお前が彼女で、この部屋の中にいて、お前の好きなものでこの部屋は囲まれているんだろ?」
確かに、本当に殺風景だったこの部屋にせっせと植物などを運び込んでは居心地のの良い部屋にしたのは私だ。
彼はそれ以上のことはなかったとわかったせいか、黙々とカレーを口へ運び始めた。
素っ気無いながらも、彼らしい言葉にあっさりと私の気分は急上昇していった。
だけど、なんとなく拗ねてなんとなくこんなあほなことをした私は、どうやって普通の状態に戻ればいいのかわからなくなっている。
いつもこうやって同じ場所で足踏みしながらクルクル回っている気がする。彼はそれを眺めては笑っている、気がしなくもない。
踏ん切りをつけようと心の中で気合をいれる。
とりあえず冷蔵庫を勢い良くあけてビールを取り出す。
おじさんみたいに一気に冷えたビールを喉へ流す。
喉を伝わる冷たい炭酸の感触がなんともいえない。
彼の対面に座り、一人勝手に彼の缶ビールに乾杯の挨拶をして、再び呑み始める。
怒っているより、笑っている方がいい。
ゴミ箱の中のろうそくを眺めながら、挑発的な彼女の笑顔を消し去っていく。
とりあえず仲直りと言う事で。
お気に入りのスカートをおろしたとたん、その日は雨になる。
私にはそんなジンクスがある。
今は舗装された道路が多いとはいえ、慎重に歩いてもどうしてもそのスカートにはハネがあがる。何度おろしたてのまっさらなスカートについた染みを見てためいきをついたか。
講義が終わった後、友人とカフェでお茶でも、といいながら差し向かいでコーヒーを飲んでいたらそんなことを思い出した。
たぶん、今の気分はお気に入りのブラウスにパスタソースが飛んだ瞬間や、スカートに泥が跳ねた瞬間に似ているのじゃないかと思う。
友人はチクッと痛んだ私の胸のうちなど知るはずもなく、好きになったと言う人のことを話しながらご機嫌だ。
私が知る限りではその相手と両思いになるのも時間の問題だろう。
だって、私はその相手に「好きな人がいるから」と、言ってふられたのだから。
「さっさと告っちゃえば?」
手にもったカップから暖かさが伝わる。冬真っ最中の外とは異なり、ここは適度に暖房が効いている。にも関わらず、私はこんなに小さいものに頼らなくてはならないほど体温が低下している。
もう、ふっきれたと思っていたのに。
強がりだけで彼女にそんなことを言ってのけても、心にもない言葉だと思われないように注意するのに精一杯だ。
「そんなこと言っても」
そんな風に照れながら話している彼女は確かにかわいい。
自分が男なら、確実に私ではなく彼女の方を選ぶだろう。
そんなことはわかっている。
だけど、心の中に跳ねたしみが消えない。
とてもとても小さなそれはそれ以上広がりはしないのに、消えてもくれない。
まるで雨の日のスカートのように。
雨が悪いわけじゃないように、彼女が悪いわけじゃない。
道路が悪かったわけじゃなくて、彼が悪かったわけじゃない。
それはタイミングのずれと、運の良し悪しによるものとしか言い様がない。
「とりあえず、言ってみなくちゃ始まらないんじゃない?」
冷静に、そんなことを言う事が出来て、ため息をつく。
相変わらず彼女はかわいくて、近いうちに彼と一緒に歩いている姿を見かけるだろうことを想像してさらに落ち込む。
その時までにはなんとか自分の中のクリーニングが終わっているといいのに、そんなことを思いながら。
「やっぱり日本人の心はコタツだよね」
「10代の乙女がそんなおじさんみたいなこと言わないで」
こんな些細なことにも涙ながら抗議する兄さんは、今時の高校生という実物大サンプルが目の前にいるくせに、夢と希望を捨てきれないでいるらしい。
「乙女って言ってる兄さんがおじさんくさい」
いや、だから、そんなにイチイチ傷付かないで下さいっていうか、この人の場合それが何か無理難題の布石のような気がして油断ならない。案の定、にっこりとこれ以上ないというぐらいの笑顔を向けてあほなことを言ってのける。
「やっぱりハイソックスがいいと思うんだよね」
「唐突に何を変態チックなことを言ってるわけ?この変態ロリコン男」
「いや!美夏ちゃん。彼氏にそんなひどい言葉!」
「誰がいつ誰の彼氏だって?」
すっとぼけた顔をして、兄さんがニヤリと笑う。
こうやって言葉だけでも既成事実にしてしまおうと企んでいるのか、兄さんは頻繁に彼氏だの恋人だのという言葉を使いたがる。その度に突っ込みを入れるのは面倒なんだけど、それでもうっかり聞き逃してしまうと兄さんが暴走して大変なことになりそうで迂闊なことはできない。
本当に手の掛かる人だと、ため息をつきながらも、そんな攻防戦が嫌いじゃない自分が少し嫌だ。
「美夏の学校ってあれでしょう、紺のハイソックス」
「まあそうだけど」
「冬になるとさ、それに手袋とマフラーだけ巻いて、寒そうにしている生足っていうのがそそるんだよ、これが」
正直なところこの人が正真正銘のロリコンだとは思ったことはないけれど、今こうしてニヤニヤしている兄さんは十分女子高生マニアといっても差し支えないのではないのか、と、疑問に思ってしまう。
「や、別に女子高生ならだれでもいいっていうわけじゃなくて」
「なくて…」
「美夏がね、そうやって寒そうにしているのをみて、もう体ごと温めちゃいたいなぁ、って思うわけよ、おじさんとしては」
「おじさんってみとめたわね、やっと…にしても、……すけべ」
「いやぁ、美夏なら何をきてもかわいいけど、冬の生足はたまらん、やっぱり、つーことで」
「だからどうしてこういう体勢になっているのか説明してもらえるかしら?」
兄さんは確かコタツの角を挟んで隣に座っていたはず。
なのにどうして今こうして後ろで私を抱っこしているのでしょうか。
「こたつより美夏で温まりたいなぁ、なんて」
本能に忠実なのはいいことだけど、なぜにどうして私の家の居間でこのような無体なことができるのか。
「これぐらいは許されるかな、なんて。本当は直接触りたいところだけど」
さわさわとタイツの上から太ももに触れてる不埒な兄さんは、心底残念そうにしている。
とても寒がりな私は、本当のところは学校ですら厚いタイツをはいて行きたい。だけど校則だし、女の子だし、ここは女子高生の意地の張りどころでしょう、ってことで皮肉なことに兄さん好みの格好で学校に通っているのだ。その反動で、家にいるときは常にタイツに下手をしたら靴下、厚手のスリッパ愛用という色気のない格好で過ごしている。
「この冬はぜひとも一線を越えたいと思うんだけど」
「永遠にそんな日はこないからいい加減諦めてください」
「もーー、美夏ったら、そんないけずなこと」
なんとなく手の辺りがスカートの中に伸び始めた頃合に、母さんがお汁粉をお盆に載せて上機嫌でやってきた。
私の置かれている状況と、不自然なほどに怪しい格好で固まった兄さんをみて、笑顔が一気に能面のような顔へと変化した。娘の私でもちょっと恐い。
娘の私が聞いたことがないような低い声で、
「直樹さん」
と一声呼んだかと思うと、視線だけで兄さんをひっぱりだし別室へと連れ出してしまった。
机の上に置かれたお汁粉を食べながら、兄さんと母さんの分がすっかり冷えて湯気なんてなんのこと?と言う状態になった後も、二人は私のところへは戻ってはこなかった。
別室を覗きたい誘惑と、知らなくていいことは知らないほうがいいという理性の忠告で、私は適当に退屈なテレビ番組をはしごする。
漸く解放された兄さんは目の焦点が合っていなかった。
それでもきっと、この人はこりないんだよなぁ、と、二人の分のお汁粉を温めなおすことにした。
「はいよ」
同僚は、すでに雪崩を起こしそうな資料の上へ、さらに無造作に書類を落としていった。
その書類に思わず殺意を抱いてしまう自分が情ない。
余裕がない。
そう、余裕がないんだ。
もともと事務書類を溜め込む悪い癖が、立て続けに起こった客先での装置トラブルを処理する日々で、加速していったせいなのだが、と、相変わらずちっとも減らない書類を前にため息の前に頭痛を覚えてしまう。心なしかこめかみあたりに緊張が走っているのは、仕方がないことだと思う。そのせいでもともといいとはいえなかった愛想のないツラが、よりいっそう怖いものへと変化していったとしても不可抗力だ。
「おまえ…びびってるぞ」
不穏な雰囲気を撒き散らしているらしい俺に声をかけるものはなく、ただ無機質にキーボードを叩く音と、紙の上に走らせるペンの音だけが響いている。そんな中であえて火中の栗を拾おうとするやつは一人しかなく、へらへらした顔を少しだけ引き攣らせて上山がコーヒーを差し出してきた。
「ん…」
お礼もそこそこに、視線で僅かに空いたスペースに紙コップを置けと指示をし、再び仕事へと取り掛かる。
チラリと腕時計を確認すると、とっくに終業時間はすぎていたらしい。
「あのさ、別にその書類今日中ってわけじゃないんだし、明日やれば?まあ、休日出勤になるけどさ」
上山の方へ顔を向けると、あからさまにびびった風情で一歩後退する。
「せめてそのひげはなんとかしろっつーの」
それでもさすがに大学からの腐れ縁、すぐさま立ち直って俺の顎のあたりに指を差す。
「時間がない」
「だーかーらー、どうせそれ今日仕上げたって事務は閉まってるんだし、土日にゆっくりやればいいじゃん」
「そういうわけにはいかない」
それ以上の言葉を搾り出すのは面倒くさいとばかりに、三度仕事に取り掛かる。
このペースでいけば、なんとか家へ帰ってシャワーを浴びて、仮眠をとって、ひげが剃れる。そんな事を思いながら。
「はっはーーん、これはデートだな」
妙なところでアンテナが鋭いこいつは、今度はにやけた顔をしているに違いない。
まるっきり無視してサクサク仕事を進めていく。
「それなら邪魔しないでおきますか、つーことでお先に!」
何が言いたかったのかわからない上山は、やけに明るく、その場を去っていった。
いったい、なにがしたかったのか。
いや、それよりも図星だった自分があまりにも恥ずかしい。
そうだ、そうだよ、明日デートなんだよ!
学生の環と社会人の俺が会える回数はたかがしれている。
平日の夜ちょっと一杯、なんて付き合いができるのは当分先だ。いや、年齢が達したところで環とそういう付き合いをしたいかどうかはまた別問題だが。
おまけに優等生の彼女は、塾なんていうものに通っている。
当然、会える日数はどんどん減っていく。
だから、明日のデートは、貴重で、特別で、どうしようもなく待ち遠しい機会なわけだ。
本来なら気分が上昇しそうな金曜日の夜だというのに、俺は水、木、金曜日と数々のトラブルの結果、どっと押し寄せていた書類の山と格闘している。
書類仕事が苦手だと、逃げ出すこともかなわず、提出期限はずれそうもなく、仕方なく今日の仕事だと割り切って黙々とこなすこと何時間か忘れた…。
とりあえずのゴールが見えてきたことで、肩の力が少しだけ抜けた。
上山がおいていった、コーヒーに口をつけるだけの余裕が出来たらしい。
すっかりと冷え切ったそれを口に含み、暖かすぎる暖房と疲労からくる眠気を吹き飛ばす。
後少し、今日の仕事も、環に会えるのも。
とりあえず口元がにやけない程度に、明日のことを励みに、書類の海へとダイブする。