77.雨

「雨…」

梅雨時だから当たり前とはいえ、降水確率20パーセントにかけていた自分としては少し悔しい。

「傘もってないの?」
「そんなところ」

次々と色とりどりの傘の花が開き、上級生も同級生も下級生ですらあたりまえだけど下校していく。
玄関の軒に立ち、ぼんやりと雨空を見上げる。
元々雨は嫌いじゃない。
ただ、賭けに負けたようで悔しいだけ。
アスファルトに跳ね返る雨粒も、降り始めのどこかくぐもったような匂いも、嫌いじゃない。

「入っていく?」

友人はそう言ってくれるものの、彼女と私では帰る道が校門をでたすぐから異なる。
彼女の家へ寄ってから傘を借りる、というのも考えてはみたものの、やはり面倒くさい。

「いいや、このまま帰るから」
「でも…」
「あーーー、職員室に借りに行くから大丈夫」

なおも心配そうに聞いてくる彼女を安心させるために、そんな事を言ってみる。
ようやく安堵したのか、彼女は笑顔を見せ、それじゃあと言いながら傘を差して歩き出す。
時々振り返る彼女に小さく手を振りながら、彼女の姿が消えるまで軒先で雨宿りをする。
たっぷりと時間をかけた後、もうすっかり水溜りだらけになった道へと進む。
大粒の雨が全身へと降ってくるだろうと覚悟をしたものの、一向にその気配すらない。
ずっと足元を見たままだった私は、訝しく思いながらも空を見上げる。
そこには予想していたようなグレイ色の空は広がってはおらず、もっとずっと真っ暗な人工的な空が広がっていた。
それが男物の傘だと気がつくまでには数秒を要した。
空を見上げて固まった私は、ぜんまいのおもちゃのようなぎこちない動きで後ろを振り返る。
人工的な空は切れ、やっぱりグレイの空が広がっている。
その下には見覚えのある顔。

「おまえね、油断しすぎ」
「兄さん」

毎日毎日見ているのだから見覚えのあるのは当たり前だ。
ただ、こんな時にこんな場所で見かけることが意外なだけで。

「今日はもう授業がないんじゃ?」
「それが先にくるかね。おにいちゃんありがとう、とか、嬉しいとかないわけ?」
「わーー、お兄ちゃんありがとう」
「そんなに棒読みで言われても嬉しくも何ともない」

だったら妹である私に何を期待したというのだ。

「傘に入れてくれる彼氏ぐらいいないもんかね」
「傘に入れる彼女ぐらいいないのかしらね」

お互いの言葉に虚しさを覚え、苦笑いをする。
兄は恋多き男だけど、どれもうまくいかない。
私はそういうことにはまるで興味がない。
そのことでお互いを攻撃しあうことはあるけれど、デリケートな分兄の方がダメージが大きいため、いつでも私の勝利で終了する。
やっとその事を思い出したのか、兄はさらに苦い顔をして無理やりその会話を終了させる。

「おまえ天気予報見てただろ」
「そうよ、降水確率20パーセントにかけたんだから」
「ばかじゃね?」
「にーさんに言われたくない」
「なんでそういうところは頑固なんだか…」

別のところでやっぱり頑固な兄が何を言ってるのかと、鼻で笑っておく。

「別に雨は嫌いじゃないし」
「濡れたら風邪をひく」
「そんなに軟弱じゃない」

軽く鼻の頭を人差し指ではねられ、思わず顔を顰める。
それが困った兄の癖なのだけれど、一向に直す気はないらしい。

「昔もこんなことがあったなぁ」

言われなくても思い出しているけれど、憎まれ口を叩くのもあれなので黙って聞いている。
小さな黄色い傘の下兄さんと一緒の帰り道。
その時の空も今日のような色をしていた気がする。

「雨は好きなんだけど、面倒くさいかな」

そんな事を兄さんが呟く。
私の脳裏にはあの日の二人。
兄さんも思い出しているのだろうか。
やっぱり、私も雨は嫌いじゃない。
兄さんのように素直に好きとは言えないけれど。


78.凍った

「どちらさまかな?」

地底の奥底から響くような低音で声を掛けられた瞬間、背筋に何やら冷たい物が走った。
こうやって呼び止められるのは初めてじゃない、だけど、今までとは違う何かを含んだような声は私をその場に足止めさせるには十二分に迫力があった。

「えーー、えっと、あの」

何を言っていいのかもわからず、混乱したまま話し出せば余計なことまで口走ってしまいそうで、意味の無い言葉を紡ぎだす。
恐る恐る振り返ってみれば、予想とは違う無表情の彼と目があってしまった。いや、口元には僅かに微笑さえ湛えているような気もする。
いつもなら明らかに怒った顔をしてこちらを睨みつけていたり、動揺した表情でこちらを窺っていたりしていたのに、こんな表情は彼らしくない。そのことに動揺して口を開けない。

「弟?」

静かに私の隣にいる男に視線を向けながら問う。
これもいつもとは違いすぎる反応でどうしていいのかわからなくなる。

「えっと…」

明らかに私より年嵩のその人をみて弟と言ってのけるのは、この間の言い訳が弟だったからだろうか。

「兄?」

全く血縁関係など微塵も感じさせない二人をみて、そう告げるのもやっぱり前の前の言い訳が兄さんだったからだろうか。
どうしていいのかわからなくて俯いて黙ったままでいる私。隣にいる男性は男女の修羅場であるというのはいち早く察ししながらやはり押し黙っている。こういう時には沈黙は金、とばかりに何も言い散らかさない方が身のためだと身に染みてわかっているらしい。

「いいかげん懲りないよね、君も」
「いや、だから、会社の人だから」

ほとんど嘘っぱちだけれど、会社の同僚の合コンで知り合った全く他社の人という、微妙にというか僅かにひっかる関係性に、とりあえずそんな言い訳を述べてみる。
彼の方は、鼻で笑うような仕草を見せ、次に軽くため息をついた。

「言い訳も相変わらずだよね、兄弟の次は従兄で、甥っ子で、姉妹の配偶者で最後に同僚ですか」
「そう、そうなのよ、言い訳じゃなくって、私ってば家族も知り合いも多いからさ」
「今日は女友達と遊びに行くって言ってたよね?」
「そうかな?」
「まさか、その人が性転換した元女だとか言わないよね」

それはさすがに、ひょろっちいけど骨ばったどこからどうみても男以外には見えないこの人を指差して言えるわけが無い、ちらっと頭に掠めなかったと言えば嘘になるけれど。

「それに一人っ子だよね、そういえば」
「そ、そんなこと言ったっけ?」
「嘘をつくなら整合性ぐらいとっておかないとね、もっとも君の言い訳を全部信じれば兄弟姉妹合わせて一ダースになりそうだけど」
「いくら私でもそこまでは…」

笑いかけて瞬間私は固まってしまった。
彼の目が、いつも優しくこちらを見つめてくれていた彼の目がとても冷たく光っていたから。

「異性の友達が多いのも、二人っきりで遊びに行くのも別に悪いとは思わない」
「…」

凍りついたまま何もいえない私を尻目に、彼は深くため息をついたまま、言葉を続ける。

「だけど、僕とは合わない。価値観の違いだね」
「価値観って…」
「嘘をついてまで会いたいなら、僕なんていない方がいい、そうだろ?」
「それって…」
「別れるから、誰とでも好きにすればいい」

そういい残して彼はこちらを一度も振り返りもせず、歩いていってしまった。
追いかける事も言い訳をすることもできずに、私はその場に張り付けられたまま。

「なんつーか、迫力のある彼氏だね」

私に彼氏がいる事を承知で会っている隣の男が、のんきそうにそう呟いた。
違う、いつもの彼は穏やかで優しくて、そんなことを思っているのに、この人にそれを聞かせたところでどうなるものではない、と言う事を自覚する。
友達の紹介で会った彼とはもう3年越しの付き合いで、もう少ししたら結婚してもいいかな、なんて勝手に自惚れていた。
恋人がいるからって異性の友達との付き合いがなくなるのは耐えられない、なんて粋がって、結果がこれだ。
私は何を得たくてこんなまねを繰り返していたのか。
隣の男はいつのまにか消えていた。
友人などと言葉ではいっても、私の男友達はこの程度だ。所詮目的は一つ、あわよくば、を狙っているような連中だ。だからこそちやほやしてくれている、ということにも気がついてはいたけれど、その快感を忘れることができなかっただけ。
だけど、あんな風に言い切らせるほど、彼のことを傷つけていたなんて気がつかなかった。
またいつもの悪い癖だと笑って許してくれると思っていたのに。
真夏の太陽の下、一向に溶けない私はその場に立ち竦んだまま。

彼の視線が消えない。


80.同時

 久しぶりに人間らしい帰宅時間となったことに、足取りも軽くなる。
ここのところ残業続きで、カワイイカワイイ娘の顔を見ることができなかった。
CMであったみたいに、「おじさん、また来てね」なんていわれないうちに俺が父親だと刷り込んでおかなくてはと、周りから見れば怪しい笑顔を浮かべる。
自宅近くの駅に降りたち、ふと、足元から視線をはずすと見慣れないケーキ屋のウィンドウが目に飛び込んでいた。
はて、いつのまにこんなものができたのかと、記憶を手繰り寄せてはみるものの、そういえば、開店している時間にココを通ったのは随分以前だった、ということに気がついた。
現実を思い知らされ、我が身がかわいそうになる。
いつも目にする風景は当然シャッターが下りてしまった暗い商店街のみだ。
こんなにも光が溢れて、人通りが多いだなんて忘れていた気がする。
何気なく自動ドアをくぐりぬける。途端に鼻腔に甘い匂いが充満する。
あいつ、甘い物好きだったよな。
唐突に思い出した瞬間、俺の目にはガラスケースの中のショートケーキしか映らなくなってしまった。 そんなつもりではなかったのに、意気揚揚とケーキを小脇に抱え、やたらめったらなハイテンションで玄関のドアを開ける。

「おかえりーーー」

勢いよく飛び出してきた娘を受け止めながら、ケーキが崩れないようにそちらもしっかりと固定する。
もしかしたら少し大きくなったかもしれない、なんて親馬鹿なことを思いながら、リビングへと娘と手を繋ぎながら向う。

「おかえりなさい」

好物の匂いと柔らかな妻の笑顔で、ああ、こういうのが家庭だよ家庭、真っ暗な中帰ってきて、ラップに包んであるご飯を適当に温めてかきこむなんてのは、真っ赤なにせものだ!そちらの方が数が多いのが悲しいけれど。

「そうそう、そういえば、駅前のケーキ屋さんって知ってる?」
「え?あーー、うん。今日気がついた」

コロコロと笑って妻があなたらしい、と呟く。

「安かったから、買ってきちゃった。あなた好きでしょ、シュークリーム」

そういえばとっくに売り切れていたせいか、ネームプレートのみで空っぽのトレイがガラスケースの中にあったようななかったような。
でも、よりにもよってたまたま早く帰ってきた日に、偶然彼女も同じ店でケーキを買っていたなんて。
なんとなくおみやげを出しそびれて、後ろ手に隠してしまう。
そんなことをしても、いつかは出さなくてはいけないのに、本当になんとなく。
俺の腕にぶら下がって遊んでいた娘は不自然な動きを目ざとく見つけ、隠していた箱を指差す。
ああ、そうだよ、俺はお前の好物を買ってきて、お前は俺の好物を買ってきてくれたんだよ。
やっぱり、明日も早く帰りたいと、切実に思う。
こんな家族から俺を遠ざける会社は悪者に違いない。


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12.13.2006(再録)
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