「緊急事態につき、至急善処されたし」
ディスプレイに打ち出された文字を音読する。なんだか、電報の呼び出し文のようだ。こんな、第三者が読めばわけがわからない文を送信してくるのは、一人しかいない。
同じ父親と同じ母親を両親にもつ、今のところ同じ苗字であるところの、悔しいことに世間様では兄弟と呼ぶべき、輝かしいほどにアホな実の兄である。
またろくでもないことをしでかしたに決まっている。
一番ましなもので、給料を全て趣味につぎ込んでしまったので食べるものがありません、何か送れ。と言うもので、優しい妹である私は切干大根を山程送りつけてやった。料理が出来ないのを百も承知で、乾物でも齧りやがれ!と思ったのだが、その後の泣き言があまりにもやかましくて、仕方がないので母親を送り込んだ。世間的には良い大学に通い、良い企業に勤めている彼に、生半可ではない期待を抱いていた母親は、彼女には理解できない趣味の世界の巣窟と化した彼の部屋へ足を踏み入れた瞬間、大魔人となった・・・らしい。後はどうなったのかは知らない。恐ろしいから。
そんな仕打ちにもめげずに、次に連絡を寄越してきたときには、彼女を妊娠させてしまった、どうしよう、という、おおよそ妹に相談するには相応しくない出来事だった。
さっくりと父親あたりに密告してもよかったのだが、「大丈夫、一緒に病院へ行くから」と、言ってみれば?とアドバイスしたところ、あっさりと狂言であることがばれたみたいだ。
あんな兄とそんなにしてまで結婚をしたかったのかと、涙を誘われたのだが、お金目当てだとわかりやっぱりな、と納得をしてしまった。
私だったら、あれを結婚相手にするのはご免こうむりたい。
で、つまるところ今回の相談はなんなのか、ということなのだが。
面白半分にメッセを立ち上げ、兄とコンタクトをとる。やつは、携帯も固定電話ももっていないくせに、ケーブルは引き込んでいるから、接触を試みるにはこの手段が一番手っ取り早いのだ。
“浮気がばれそうだ、なんとかしてくれ”
“ばかじゃないの?そんな甲斐性のない貧乏人のくせに”
“人生にはモテ期があるっていうだろ?据え膳食わぬは男の恥だ!!!”
“そういうのは、うまく処理できる人がやるもんだろうが、兄貴のような不器用な人間がやれるこっちゃないでしょ!!!!!”
“そんなこと言わないでくれよう”
早速泣き落としに入ってきやがった。
いつでもそうだ。最後にはいつもこうやって弱弱しそうに意見を通そうとするのだ。
優しい優しい妹であるところの私は、仕方が無いので彼の苦手な姉に丸投げすることにした。
私たちとは歳の離れた姉はしっかりものでやさしくて、曲がった事が大嫌いな働く主婦である。
当然、フタマタだの不倫だの浮気だのといった単語は忌み嫌っている。
ちゃっちゃとケータイで姉に事情を説明する。
秒速で返事がやってくる。機械が映し出している文だというのに、行間から文字の隅々にまで激怒したオーラが漂っている。あまりにも強い感情は機械的なオンラインでも伝わってしまうものだろうか。
“おねーちゃんにお話しておいたから”
本当はハートマークなどを散らしたいところだが、やめておく。
これにこりて妹に馬鹿な相談を持ちかけてこなくなることを願っているのだが。
学習機能のついていない兄は、忘れた頃にはやってくるのだろう。アホな問題を引っ提げて。
少しだけ楽しみにしている自分が恐い。
そろそろ私も彼氏をつくろう。兄にかまっている暇なんかなくなるように。
気が付いたのは電話の回数だった。
最近、話す機会が減っている事には気が付いていたけれど、お互い休日の日に一度も着信が無かった事に気が付いた時には、愕然とした。
着信略歴を辿ってみても、彼の番号には出会わない。発進略歴を見ても、私から彼へ電話をかけた形跡がない。
なのに、私はこんなにも平気でいられる。
大学を卒業してそれぞれ就職をして、始めは忙しさにかまけて、連絡がおろそかになった。それでも、折々に都合をつけては会いに行ったり来たりしていた。
仕事にも慣れ、新しい環境が出来上がった頃には、あまり行き来をしなくなっていた。新人の頃より気持ちにもゆとりが出来ているはずなのに、その隙間に彼が入り込むことはなかった。
新しいお店やスポット、おいしいランチのお店、そんなものには目ざとく反応するのに、彼と何かをして過ごす、ということにはまるで関心がなくなっていった。それはたぶん、彼の方にしてもそうだったのだろう。同じように同じペースで係わり合いがなくなっていったのだから。
隣にいることが自然だったのに、今では一人で過ごすことのほうが遥かに自然だ。
あんなにあの人が遠くへ行って、寂しかったのに、夜を一人で過ごすのが上手くなっていた。
こんなにも自然に、こんなにも緩やかに、彼の存在が私の隣から消えていく。
だから当然、彼の隣からも私の存在は消えていくのだろう。息をするよりも自然に。
急に、背筋が寒くなっていった。
忘れられるのも恐くて、忘れるのも恐い。
慌てて彼に電話をしてみる。
そんな行動は何ヶ月ぶりだろう、と、少し興奮しながらつながる瞬間を待つ。短い間に、何を話そうか、なんて考えるのは楽しいことだったんだと、思い出した。
だけど、出てきたのは、知らない名前の知らない声の男の人だった。
慌てて謝罪の言葉を述べる。
そうして、彼の隣にはもう、私が存在しないのだと気が付いた。
彼との全てが、消えていく。
まるでなにも無かったかのように。
兄だけが私の世界の全てだった。
差し出される手も、柔らかな微笑みも、全て全て私のものだったのに。
「こんにちは、はじめまして」
華のような笑顔で私へと笑いかける女性は兄の恋人だと名乗った。
悪い冗談だと思った。
大学に進学してから下宿生活に突入した兄は、確かに家へはあまり寄り付かなかったけれど、いつもだらしなく下宿先に寝転がっていたではないか。
ゴミだらけとなった部屋を掃除して、布団を干して、食料を調達して、なんとか人間らしく生活できるようにしてあげたのは私だったじゃないか。
余程怪訝そうな顔をしていたのだろうか、兄が慌ててフォローに入る。
「ごめんな、こいつ人見知りするから」
違う。人見知りなんかするタマじゃない。ただただ、今言ったことが信じられないだけだ。
「でも、しっかりした妹さんじゃない。料理も上手だし」
「やーーー、まだまだ子どもだって。それにごはんだったら裕美の方がうまいって」
どうしてこの人が私が作ったものを食べているの?
疑問は怒りとなりますます話せなくなっていく。
確か、今日は久しぶりに兄のところへやってきたはず。いつものようにアポなしで。そうしていつのもように掃除をしようと部屋を開けたら、なんだか妙によそよそしい雰囲気を醸し出していたのだ、兄の部屋が。
私主導で部屋を管理していたせいか、兄の部屋は私の部屋のように落ち着いて過ごせるスペースだったはず。なのに、今日覗いてみたら、まるで別人の部屋のようになっていた。
ゴミ箱の置き場所、ポットの定位置。そんなものがこまごまと異なって、結果として違う印象を与えているのだ、私に黙って。
その理由が、兄の帰宅と共に氷解した。
彼女の、せいだと。
「これからどうする?」
二人はこれから晩御飯でもこの部屋で食べる予定だったのだろう、スーパーの袋を抱えて帰ってきた。そこは私もよく利用したところだと、なんだか懐かしい気分にかられてしまう。
「・・・帰る」
「ん?そっか。まあ気をつけて帰れよ」
そう言って兄は、一言も引き止めもしなかった。
あげくに帰り際に、私にだけ聞こえるように囁いた。
「悪いけど、合鍵置いてってくれ、な。この年で妹に世話になってるなんて情けないし」
問答無用で、私が持っている合鍵を取り上げる。今まで何も言わなかったくせに、と反抗的な思いまで芽生えてきてしまう。こんなにも都合よく切られてしまうなんて、兄が私に頼っていたのではなくて、私が兄に依存していたのだと思い知らされる。彼がいなくては生きていけないのは私の方だ。私は、私は兄を―――。ふとよぎった思いに背筋が寒くなる。そんなことを思ってはいけない。私は妹で、彼は兄なのだから。だけど、思った以上に私の思いは、兄の下に根を生やしている。まるで寄生する植物のように。
ぐちゃぐちゃな思いと、何もかも取り上げられた私は、泣き出しそうになるのを堪えるだけで精一杯だ。ふと、兄の後ろに座っている彼女の顔が視界に入る。
それが、私にはまるで勝ち誇っているかのように見えたのだ。
鬱屈した思いを蹴飛ばすように、反射的にドアを蹴り付ける。
ドカっという派手な音とともに、勢いよく扉が開いてゆく。
向こう側にはまだ光が落ちきっていない空が見渡せる。
「勝手にやることやってれば?私は関係ないから!!!」
それだけを叫んで、走り出す。
精一杯の反抗にも兄はさっぱり反応を示してくれない。
やっぱり追いかけてこない兄、姿が見えるのではないかと振り返る私。
もうあそこにいてはいけないのだと痛感する。
この日、私は何かを失った。
ずっと彼と二人きりの世界にいたせいか、社会にでた私はまるで浦島太郎のようだった。
高校時代から付き合い始め、同じ大学の同じ学部に進学、授業も一緒、授業の後も一緒。それがあたりまえだと思っていた。だけど、就職した途端に、二人が会う時間もめっきり少なくなっていった。もちろん休日には会うようにしているけれども、慣れない仕事に精一杯の私は、それすらかったるいと思ってしまう日もあったりする。彼には悪いけれど。
だから、体調不良を装って最近の約束は全部無かった事にしてしまっている。本当の理由なんて言えないから。
平日は授業、授業が終わったら一緒に帰る、もちろん私は自宅生だったから、別々だけど、ずっと彼の都合で帰宅時間が決まっていた。土日にしても、なんとなく二人で一緒にいて、私がバイトの時には終わりを見計らって迎えに来てくれた。
周囲の男性陣は口々に「なんて優しい彼氏だ」と、彼のことを誉めそやしていたけれど、女性陣は微妙なリアクションをしていた。もっとも、彼女達の本音が聞けたのは最近のことで、「あんなに束縛がきつくてよくやっていけるよね」だなんて、思われていたらしい、私たちの関係は。
優しい彼氏を顎で使っている彼女。それが私につけられたレッテルで、その世界では私は文句一つ言う事を許されなかった。彼氏の愚痴をこぼすことも、疑問に思うことも。元々無気力気味の私はそれをなんとかしようとする気力すらなかったし、そもそもそんなことに気が付くこともできなかった。ゆっくりと静かに私は彼に支配されていたのだ、二人きりの閉じられた世界で。
就職して、無理やり周囲の環境が変化してみると、その奇異な部分があからさまに目に飛び込んでくる。
あまり遊べなかった友人とも、何の気兼ねもなしに遊べるなんて、当たり前のことなのに新鮮すぎて驚いてしまう。
ゆっくりと着実に私は私に戻っていく。
もう一度素の私と向き合ってみて考えてみる。
この世界に誰が必要なのかを。