下から覗き込むようにしてみる彼の瞳が大好きだった。彼も同じように私のことを好きでいてくれたらいいのに。
そんな虫のいい願望を抱いてしまうぐらいに。
唐突にやってきた別れ、それは彼の家の引越しということからもたらされたものだけれど、高校生同士のお付き合いを打ち壊すには十分すぎるものがあった。
現実問題付き合いつづけるための資金が足りない。高校生だからバイトも限られてくるし、そんなに時間を持て余しているわけでもない。外泊だってなんだって制限がかかる。私達はまだ庇護の下にいるのだから。
現実の生活に流されて徐々に忘れていく自分を、もう哀しいとも思わなくなる。
歳を重ね思い出すことすらなくなっても、きっと後悔もしないかもしれない。
でも、ああやって見上げて瞳の色だけはきっと忘れない。いつまでたってもきっと。
「加湿器いれすぎ」
湿気で曇ったガラス窓に意味もなく落書きをしてみる。
「今の時期はウィルスがいっぱいだからな、加湿器ぐらいいれないと」
神経質なのか大雑把なのかよくわからない彼は、冬になると必ず加湿器を出す。
室内の湿度は60%。幾日も続く晴天の冬間にしては限りなく理想的に近い湿度を保っている。そのおかげか彼の部屋の観葉植物は冬とは思えない成長を見せ付けている。
「それに、この方が暖かく感じるし」
それは、確かに。湿気が多い方が暖かいけれども。
窓から目を離し、部屋の床を見渡すと、参考資料が乱雑に積み重ねられている。
「なんで、そんなとこだけ神経質なのかね」
ため息をつきながらそっと資料の山を整理する。
こうやってやって片付けるから彼がやらなくなるのだ、とか、どうせここは私の家じゃないのに、と、頭の中で冷静に囁く自分がいるけれど、でもやっぱり片付けてしまう自分が嫌いじゃなくって。
結局割れ鍋にとじぶたっていうやつかもしれない
今でも思い出す。
新興住宅街なのになぜかど真ん中にあった小さな神社のことを。
小規模とはいえ曲がりなりにも神社だから、その周辺は雑木林のような木々がざわめいていた。当時子どもだった私にとってそこは大きな森にも等しく、格好の避難場所となっていた。
大きな木が多かったからかどうしても薄暗い境内は、そこだけ取り残されたような静寂に支配されていて、どちらかというと人を寄せ付けない何かを感じ取っていた。
だけど、だから、私はそこへと逃げ込んだ。
誰もいない空間、誰にも邪魔されない時間。そういったものがあの時の自分には必要だったのだと、今では色々分析することができる。
とりつかれるようにして迷い込んだ空間は、私にはひどく優しく、そこにいるだけで癒されるような錯覚に陥ることが出来た。
今はもう、行くこともないけれど。
それは自分が強くなったからじゃない。
弱くなっているのかもしれない。
あの人という受け皿ができた自分は、もう一人では立てないのかもしれない。
依存してはいけない、呪文のように繰り返す言葉。
もうあの頃には戻れない。
日常の仕事が苛烈を極めると、たまの休日は泥のように眠ってしまうことが多い。
今日も今日でせっかくの日曜日、おまけに外は晴れだったらしいのに、あろう事か夕方まで眠り込んでしまった。窓からさす日の光は弱く、すでに傾ききっていることを現している。
ここのところ、香織ちゃんの顔も禄に見ることができなくて、それでもなんとか朝食だけは一緒にと思っていても、相手は受験生だから朝の補講だとかでイマイチ時間がかみ合わない。
これでやっと彼女に会えると喜んだのも束の間、一瞬にして、その渇望していた時間が過ぎ去ってしまった。自業自得なんだけど。
「あの・・・香織ちゃん」
おたまを持ちながらこちらを振り返る。その顔は怒っている風でも悲しんでいる風でもない。いたって普通の香織ちゃんがいる。
「ごめん」
最近話していないことだとか、遊びに連れて行く約束を何度も反故にしたとか色々なことを指して謝ったつもりなんだけど、彼女はわけがわからない、という顔をしている。
「若、俊也さんどうしたんですか?」
若先生と言おうとして咄嗟に言い直した香織ちゃんが小首をかしげる。
「いや、色々約束やぶっちゃって…それどころか禄に話もできなくて」
「?でも今お話してますよ?」
火を止めてこちらの方へ香織ちゃんが向ってくる。本当に、本当に、彼女の姿をこんなに長く見ていられるのは久しぶりで。久しぶりだからかこちらの方が妙に緊張してしまったりして。
不意に、彼女の手が額に触れる。
「熱?はないみたいですけど」
あくまで心配そうに訊ねる彼女に意図はないのはわかっている。
でも、彼女との久しぶりの距離に振り切れそうになるぐらい上がっているのは俺のほうで。
「――ダイジョウブです」
ちょっとだけ体勢を整えて、30cmほど彼女との距離を遠く保つ。
今まで平気だったものを意識してしまう。
早く慣れないと心臓が危ない。
こんな普通の時間をもっと持たないといけない。
「何をやっている?」
学校になぜだか存在するベンチで美紀ちゃんとお昼ご飯を食べていたら、後ろから声がかかった。振り返らなくても誰だかわかる美声の持ち主。
後ろからスーツを着た腕が伸びてきて、簡単にお弁当の中身の一つを取り上げてしまう。
悔しいぐらい綺麗で細長い指で卵焼きをつまむと当たり前のような顔をしてその口に放り込む。
「先生、お行儀悪いですよ」
大好きなおかずを取られて、ちょっとだけ眉根を寄せて答える。
「俺は甘い方が好きだな」
なのにこの人は味付けにまで注文をつけるのか。
「私はこっちの方が好きなんです」
力を込めて言い張る。
「俺の好みぐらい覚えろ」
「イ・ヤ」
相変わらず自分を中心に地球が回っているような発言を繰り返す。
本気ではないはずだ。いや、ないと言って欲しい。
ベンチの背もたれに、私を囲むようにして両手を置いている。ここが学校でなければこのまま抱きつかれてしまいそう。
さすがに人目があるのでそれはやらないと・・・思うけど。どうしてこの人は必要以上に私と接触しようとするのか。
「いいかげん和奈にちょっかいかけるのはやめたらどうです?みっともない」
みっともないの部分に思いっきり力を込めて言い放つ。美紀ちゃんは鈴木先生に対してはとことん強気だ。
美紀ちゃんの強気を鼻であしらいながら、今度は勝手に私の髪を弄び始める。
この人との接触に慣れきっていることが怖いような気もする。
仕方がないので、何事もなかったような素振りでお弁当を食べつづける。この人にはどんな正論も理屈ももちろん屁理屈も通じない。
私の沈黙を肯定と受け取ったのか後ろで好き放題にしている担任教師。
この人には勝ったり負けたり。いつか絶対完勝してやる。
その前にものすごい負のオーラを撒き散らしてこちらへと近づいてくる祐君をなんとかしなくちゃならない。
私はとことん祐君には弱いから。