今、目の前で毛布を抱えながら眠りこけている男は、子どもの頃はそれはそれはかわいらしい男の子だったのだ。
それこそ、オムツのCMに余裕で出られそうな程愛くるしい赤ちゃん時代。
いつも女の子に間違えられた子供時代。
大人になる前のわずかな時間しか見られない瑞々しい少年時代。
周囲が思わずため息をつくほど神秘的にな美貌は、それこそ大袈裟だけど天使が舞い降りたと言われるぐらいだったのに。
よだれなどをたらしながらそれでも眠ったままの男の額を、わけもなく中指で弾く。
予想よりもいい音をさせたものの、対象物は一向に起き上がる気配すらみせない。
いつ、どこで、こうなったのだろう、と、まじまじと彼の顔を見つめる。
ひげだらけの顔に、いつのまにかムクムクと大きくなった身体。不器用そうな節くれだった手と、有り得ないほど大きなサイズの足がくっついている。
どこからどうみてもむさくるしいとしか言い様が無い。
くたびれたTシャツにトランクス、毛むくじゃらの脚。美少年は何かを飛び越えてただのおっさんとなってしまった。
かわいそうなのはこの私だ。
一番身近に彼を見て、一緒に成長してきたせいか、変に歪んだ美的感覚と形ある物はいつかは滅びるといった妙に年よりじみた人生観を学んでしまった。おかげさまで、私も同年代に比べれば十分ばばくさい。
「なに考えてるんだかね」
再び中指で鼻の頭を弾く。
今度はさすがに痛かったのか、眠りが浅くなっていたのか、薄っすらと目を開ける。
「初夜なんですけど」
いまだ夢の中といった風情の彼は、ぎゅっと毛布を抱えこみ身体を丸くする。
新婚の花嫁を目の前にして、毛布を抱くなどという色気の無い事が許されるのだろうか。
じーっと一点を見つめていたら彼が跳ね上がるようにして起き上がった。
「百合子さん、頼むからソコは狙わないでください」
トランクスの前に毛布をかき集めて防御している。
私のカモシカのような脚が狙っているのに気がついたのか、ちょっとだけ震えている。
半分本気で半分真面目に狙っていた私は舌打ちをする。
「私のベッドの上で眠りこけるのなら、自分のベッドに戻って頂戴」
ダブルベッドを主張していた彼をあっさりと蹴散らし、シングルベッド二つを置いたのはもちろん私だ。
いくらダブルとはいえ、こんなに体の大きい毛むくじゃらと一緒に眠るなどもってのほかだ。冗談じゃない。
「ごめんごめん、仕事が立て込んでて」
年中忙しい彼は、本日の披露宴と来週から赴く新婚旅行のためにかなり無理をして仕事をこなしていたらしい。そのつけが、緊張から解き放たれた自宅で出てしまうのも無理は無い。無理はないけどむかつくものはむかつくのだ。
「今更ってかんじだよね」
「今更ってかんじよね」
Tシャツにパンツ一丁の男とパジャマの女がベッドの上でしみじみと語り合う。二人の間には彼が抱きしめていた毛布が横たわっている。
「付き合いながいもんなぁ」
「まさに腐れ縁」
幼稚園時代からのつきあいだから、本当にもう長い付き合いだ。
しかし、俗に言う筒井筒のような夢のあるエピソードはないと断言できる。
つかず離れずの距離を保ち、知人と親友の間のような関係を結び、ずっと知っているけど、よく知らない人というスタンスが変わることはなかったのだから。
「まさかあなたと結婚するとはね」
「そうですか?僕はずっと結婚するって思ってましたけど」
あっさりと衝撃の告白をする幼馴染の顔をまじまじと見つめる。
まだ美少年だったころの面影が、薄っすらと目元のあたりに残っているのかもと、冷静さを保つために関係ないつっこみを入れる。
「だって、僕の初恋って百合子さんですから」
見詰め合った格好で思考が停止する。
今、聞きなれない言葉が耳に飛び込んできた気がする。
ショックのあまり全身が固まってしまった私をよそに、彼はいそいそとTシャツを脱ぎ始めている。しかも満面の笑みで。
「あれ?知りませんでした?」
「・・・・・・知るわけないじゃない」
こやつとこういう関係になる前には、いや、なった後にもそんな気配は微塵も感じさせなかったくせに。
だいたい、今までの歴代彼女は私とは正反対のおっとりお嬢様風味の女の子ばかりだったじゃないか。
口をあけたまま呆然とする私に彼はニヤリと笑いかける。
単純だけど馬鹿正直な彼が今まで見せた事の無かった笑い方だ。
「僕も気がついてなかったからお互い様かもしれませんね」
いそいそと私のパジャマのボタンを外しながら、私に万歳の姿勢をとらせる。
はっと我に返り、すっかりはだけてしまった前を合わせ、とりあえず隠す物は隠す。
「ちょっと待て」
「えええええ。けち」
「けちって、ばかか」
「百合子さんよりは馬鹿だけど」
「そうじゃなくて。いつから好きだったわけ?私のこと」
肝心のところがはぐらかされるところだった。
大人になって、一人二人と結婚をしていき、最後に残ったというか、こいつ以外の人間は結婚する方が不幸になるといいった面子しか残っていなかったのと、仕事が行き詰ってつい結婚でもしてみようか、なんて思ってしまったのが運の尽き。
たまたま結婚しようかな、なんて考えていたこいつとうっかり意気投合してしまい、その日のうちに既成事実が出来上がってしまった。という間抜な私たちは、恋愛結婚というカテゴリーからは思い切り外れていると思っていた。
いや、今でも思っているには思っているけれど、こやつが今更聞き捨てならないようなこといいやがる。
「いつからって、子どもの頃から」
「はあ?そんな風にはとてもじゃないけど見えなかったし」
「うん、そりゃあ無自覚だもん」
「だもんって、あんた」
「前カノもその前も、その前の前にも言われたことあるんだよね」
「何を?」
「誰か他に好きな人いるでしょうって」
「だからといって、それが私だとは」
「でも、結婚したいって思ったのは百合子さんだけなんだよね」
「や、それは慣れてるから」
「どうだろう?結構長く付き合った子もいるけど、そういう風には思えなかったし」
わずかに残っていた布切れであるトランクスすら取り去って、真っ裸で何を語るのか?おまえは。
「で、百合子さんと付き合ってみて、それこそ謎が解けた!!ってかんじ」
「いや、殺人事件じゃないから」
「それぐらい難問だったってこと。どうして気がつかなかったかなってね」
まあ、よく考えれば結構ロマンティックといえないこともない彼の告白も、この状態では酔えない。
「ずっと百合子さんのこと好きだったんだよねぇ、僕って。結構一途なやつでしょ」
「ばっかじゃないの。適当な事言って、見え透いたこと言わなくたって、もう逃げないってーの」
「さすがにアレだけ旅に出られたら、僕だって警戒するよ」
私は煮詰まると、唐突に旅に出たくなるのだ。しかも思うだけでなく確実に実行する。しかも家族にも行き先を告げずに、ついでに携帯は持つけれども電源はほとんど入れない状態だから、全く連絡が取れなくなるのだ。特にこいつが原因で旅に出た日には、こいつの声は聞きたくない、絶対に電話にでなかったものだから、最初のうちはかなり心配をさせていたらしい。それでも、最近はだいぶ慣れて鷹揚に構えてくれていると思ったのだけれど。
「慣れるのと寂しくないのは別。百合子さんがいなくなれば寂しいし」
気がつけば下のズボンが脱がされている私は、どうして彼の後ろに天井が見えているのだろう。
「百合子さん愛してる」
いや、だから、今更ラブラブの恋人同士みたいな事を言われても困るんですが。
「ということでいただきます」
律儀に手を合わせた彼に上着すらも剥ぎ取られていた。
いつもこいつのペースに乗せられている気がする、と思いながらも、でも、こいつの肌の感触は嫌いじゃないな、毛深いのを除いて、なんてことを思う。
すっかり私のベッドの上の住人と化した隣の人間を見下ろす。
ハードスケジュールをこなした彼は、それこそ指を弾いたぐらいでは起きそうもない。
空っぽの彼のベッドに移動しようかとも考えたけれど、なんとなく、体温が恋しくて彼の背中に寄り添ってみる。
とりあえず、こいつが私の初恋の相手だったとは口が裂けても言わないでおこう。
これ以上恋愛っぽくなってしまったら、私の心臓がもたない。
子どもの頃からずっと好きだった人間と、一緒にいられるだけでもドキドキなのに、まさか私がその人のお嫁さんになるなんて。
初恋は実らないと言うけれど、実ってしまうこともあるのだと、私はとても幸せな眠りに落ちる。
彼の隣で。