準備室より愛を込めて


 薄暗い校舎内をひっそりと歩く。祐君と美紀は部活にいそしんでいる最中だから一人だけで。 これから向う場所を祐君に気がつかれたら、そのまま身体ごと拘束されかねない。 それだけ“例の人”を警戒している。もうそんな感情はあの人にはないのだと、どれだけ言っても砂漠に水を撒く作業のように無駄になった。祐君もあの人から出されるオーラが変化したことぐらいわかっているのだけれど、私が近づくこととそれは相容れない感情らしい。まあ、それも無理はないとは思うけども。

「失礼します」

彼しかいないであろう準備室にたどり着く。

「ああ、入れ」

相変わらず高圧的な物言いのこの人は、トレードマークのような無表情の仮面ではなく、生身の人間らしい表情を身に付けて迎いいれてくれた。これで物言いも優しくなれば、先生のファンもぐっと増えるのに、と思わないこともないけれど、件の表情は限られた人間、学内で言えば自分にだけ向けられたものだと知っているだけに、ひっそりとため息をつく。

「答案用紙にあんなメッセージを入れて、誰かに見られたらどうするんですか?」

私としても祐君が嫌がることをするのは本意ではない。だからできるだけ関わらないようにしているのに、どうしたことだが私への執着を捨て去ることがない。半分は祐君へのイヤガラセのようなものにしても。

「真に受けてきたのは和奈の意思だろうが」

彼らしい表現に心のどこかでホッとする。もう立ち直れたのかもしれないと。

「まさか、この日にあわせて小テストをしたんじゃないでしょうね」

返却された答案用紙には、小さな文字で“今日数学準備室に来なければ春休み中補講だと思え”と書き付けてあった。
まさか本気だとは思わないけれど、夏休みの嫌がらせもあるし、まるっきり冗談とも思えない。おまけにテストの点も平均点スレスレという超低空飛行。真意を問い質した方が、大袈裟に言えば未来のためだと思い、こっそりとこんな場所までやってきたのだ。

「わざとに決まってるだろうが」

シニカルな笑みを湛え、余裕の返答。様になっているから余計に腹が立つ。

「で、何の用なんです?本当は」

春休み中補講と言うのは冗談に違いない、いや、半分本気かもしれないけど、今日この場で言う性格ではない。たぶん、祐君が私の隣にいるときに、からかい半分そんなことを言い出すだろうと予想がついてしまう。こんなことを予想できる自分に少しだけ嫌気がさすのだけど。

 少し長い前髪を雑に掻き揚げて、紙袋から細長い箱を取り出す。
窓から見える風景はもうすっかり暗くなり、蛍光灯だけが部屋の中を照らしている。
自分の影と彼の影をぼんやり見つめながら2-3歩彼の方へ近づき、箱を見つめる。
それは、外から見えるように、綺麗に箱詰めされた一輪の薔薇の花だった。
深紅でも淡いピンクでもない、もっと茶色がかった落ち着いた赤色の薔薇は、長身で綺麗な顔立ちの彼には似合いすぎて、思わず息を止めて見入ってしまう。

「和奈に」

思いがけないぐらい優しい声音に、思わず受け取ってしまう。
じっと薔薇を見つめ、混乱した頭を整理しながら彼の顔を見上げる。

「どうして?」

わけがわからない私は素直に問い質す。気のせいか頬に赤みがかかった先生は、それでもすぐにいつものペースに戻り、余裕の笑みを浮かべる。

「バレンタインだから」

ますます、混乱する。
今日がバレンタインだと言うのは祐君と一緒にいる私は嫌と言うほど実感している。
待ち伏せ、手渡し、下駄箱、机、ロッカーと彼の行く先々にありとあらゆる種類のチョコレートが存在していたから。さすがに直接渡してくれるものに対しては、お礼の言葉とともに断っていたのだけど、手渡しは断られる、という事実があっという間に広まるにつれ、午後にはすでに彼の占有スペースには溢れんばかりのチョコが山積みとなっていた。
私としては多少、いや、かなり面白くないもののこの日ばかりはおおっぴらな告白も許される一日とあって、自分の気持ちを押し込めて文句の一つも言っていない。
だから、嫌と言うほどチョコにまみれた私は、今日が女の子が告白する日だとわかってはいる、けれども、先生の先ほどの行動とは結びつかない。
困り果てた私にもう一歩近づき、私の髪を掬っては遊んでいる。
私の髪が短くなったことをこの人なりに気にしているらしい。

「バカだな、和奈。好きな人に何かを渡す日だ」

好きなという言葉に嫌にアクセントを置いている気がしなくもないし、外国ではお互いに贈りあう風習があるというぐらいは小耳に挟んだことがある。

「でも、ここは日本だし」

そんなことはわかってる、と私の言葉をあしらいながら。一応私も危うい雰囲気になることを避けるためボケてるんだけど。それをあっさりとなかったことにするあたり、年上というか年長者の余裕を感じる。

「和奈に似合う花だと思ってな」

これは先生の本音だろうか冗談だろうか。判断がつかずに、でも本能で危険を察知して半歩後ろに下がる。
そんなことはわかっていた、と言わんばかりに私の腰に手を添え引き寄せる。
どこで経験をつんだのかは知らないけど、あくまで自然に流れるようにその所作を行なうあたり、かなりの場数を踏んでるに違いない。
そんなことを冷静に考えるあたり、私もかなりこの人に毒されているらしい。

ごくごく自然に唇が触れそうになる。
その瞬間私はポケットから取り出したものを目の前に差し出す。



「・・・・・・・・これはなんだ?」
「とうがらしスプレー」

場の雰囲気にまったくそぐわない代物は兄も祐君も所持することを強く勧めた一品。よもやこんなところで役に立とうとは。

「なぜ目の前にある?」
「痴漢除け」

ちょっとだけ引きつった先生から離れ、にっこりと微笑む。ここまで自分のペースにもってこられたのは初めてで、心の中で祐君に感謝する。

「でもまあ、この花は気に入ったからもらっておきますね」

脱力する先生を尻目にとっとと準備室から退出する。いくら痴漢除けスプレーがあったとしても、体格差から彼のペースにもう一度持ち込まれてしまうのは明らかだから。

「失礼しました」

足取りも軽やかに教室へと歩く。嫌いではない相手からの花のプレゼントは思った以上に嬉しい。一日中祐君がチョコをもらう姿にやっぱりかなりストレスを感じていただろう私は、ちょっとした対抗心をもっていたのかもしれない。
その後、祐君の不機嫌オーラと先生の新手のイヤガラセ“家庭訪問と山程の宿題のセット”に悩まされる羽目になるけれど。

02.09.2005
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タイトルからすぐにわかるとおり、数学準備室の住人のイヤガラセ、ではなくちょっとしたお礼? 限りなくコメディー路線。
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