あ、またいる。と。
すでに常連になってしまった姿を見つけて少し嬉しくなった。
青華高校一年三組、増川悠美。
図書委員であるあたしの木曜日、放課後の居場所はこの静かな図書室だ。
貯まっていた返却本を元の場所に戻したら、あとはカウンターの中で頬杖をついてひたすらボンヤリしている。あんまり読書好きな人がいないのか、静かな図書室はほとんど無人だ。
司書さんがいるにはいるのだけれど、「用事がある」とかなんとか理由をつけて、あたしが来るといつもさっさと帰ってしまう。職務怠慢? と思わなくもないけれど、上の人の目がなくて好き勝手できるのはやっぱり気楽だ。
本当は二人一組で行うはずの、週に一度の放課後カウンター当番だけど、もう一人の人はきちんと来たためしがない。図書委員の仕事は楽だし、委員会が面倒でサボりたいというタイプの人も多いから、彼もそうなんだろうと思って早々に諦めた。
けれど、図書委員の仕事は決して楽とは言えない。重たい本を運んだり、返却が滞納している人に催促する文書を作成したり、意外とやることがたくさんあるのだ。それを知らない人は多い。
あたしはここで一人で過ごすのも気に入っている。大好きな本に囲まれているだけで落ち着くし、誰も見ていないのをいいことに、本棚から好きな本をこっそりカウンターに持ち込んで読み放題だから。
ある日、いつになく量の多い返却本を一人で棚に戻すのに苦労している時だった。
「大丈夫? 手伝おうか」
「ひゃっ!」
ちょうど、高いところに手を伸ばして、指先だけで本の隙間に入れようとして背伸びしている時に真後ろから突然言われたので、とっさに振り向いたあたしはバランスを崩して尻餅をついてしまった。
「あ、ごめん。びっくりしたよな」
「いいえ。あたしがぼんやりしていただけですから」
尻餅をついても両腕に抱えた本だけは死守したあたしを見下ろして、その人は苦笑していた。
そこで初めて彼の顔を見て驚いた。
名前だけは知っている。隣のクラスの大西くんだ。
うちのクラスの男子とも仲が良いらしく、よくこちらに遊びに来ている。休み時間ごとに賑やかに騒いでいる姿からは、とても本好きには見えない。それとも意外に読むのかな。でも一度も図書室に来たのを見たことがないし…。
「いや本当、悪かった。その本貸して。お詫びに手伝うよ。それ戻す本だろ、どこに戻せばいいの?」
「えっ? そんな、いいですよ。仕事だし」
初対面の、ましてや図書委員ではない人に仕事を手伝ってもらうわけにはいかない。
お尻をさすりながら立ち上がったあたしに、大西くんはいいから貸して、と手を差し出した。
それでも渋るあたしを見てやれやれと言うように首を振ると、大西君が言った。
「…あんた、三組の増川悠美さんだよね。俺のこと知ってる?」
あたしの苗字だけではなく名前まで知っていることにまた驚いた。
「大西くん。四組の」
「そう。俺は先輩じゃないし、クラスは違うけど学年は一緒なの。だから敬語も使わなくていいし、手伝うって言ってんだからそんなに遠慮しなくてもいいよ」
「でも、大西くん図書委員じゃないし…」
「そんな本の山を女の子一人に持たせてられないって言ってんの。いいから、ほら」
有無を言わせない大西くんの迫力に負けて、あたしは抱えていた本をしぶしぶ渡した。
「最初からそうすればよかったのに。結構重いじゃん、これ」
そう言って笑うと、結構可愛いんだなと、男の子に対しては失礼な感想を抱いた。
「でも、悪いし…」
「悪くないって。でもそう思ってるなら、次の本。どこにしまうのか教えて」
と、大西くんは抱えている中で一番上にある一冊を指差した。
それが、彼と初めて交わした会話だった。
それ以来、毎週当番のために図書室に来ると、必ずと言っていいほど大西くんがいる。
授業で出された宿題を机で黙々と片付けているときもあれば、「これ貸して」と数冊の本をカウンターに持ってくることもある。時には、そのままお喋りすることもある。返却本を戻すのも、手伝ってくれる。
あたしは好きで図書委員になったけれど、カウンターにいると暇な時は本当に暇だ。
元々人見知り体質なあたしは、男の子というだけで最初は大西くんと話すことはおろか、目を合わせるだけでも緊張していた。けれど、何度も会って話しているうちに慣れてきたのか緊張しなくなった。それどころか段々楽しくなってきて、暇になると本を読みながら彼がカウンターに来るのを待ちわびるようになっていた。
その話を同じクラスの依子ちゃんにすると、
「大西くんが? ふうん。意外なこともあるもんだね」
と言って感心していた。
それはそうだ。あたしだって意外だと思っている。
あたしは今まで、男子と二人になってあんなにたくさん話をしたことはなかった。しかも、必要事項ではなく単なる雑談として、会話が弾むなんて初めてだ。
けれど仕事をするあたしの邪魔は決してせず、適度な距離を保って接してくれる大西くんと過ごす時間は心地よかった。
うちのクラスによく顔を出す大西くんは、教室の中であたしと目が合うと軽く笑いかけてくれるようになった。
嬉しいような、気恥ずかしいような、なんともいえない気持ちで、いつも目を伏せてしまう。
それに気づいた依子ちゃんに「駄目だよ、ちゃんと挨拶返さないと!」と怒られることもしばしばだ。けれど、図書室以外の場所で見る大西くんはいつも図書室で話す大西くんとは違う人に見えて緊張してしまい、クラスの大勢の人前で大西くんに話しかけに行くことができなかった。
「大西くんは、本が好きなの?」
いつものカウンターで、ふと訊ねてみた。
「え?」
「だって、最近よく図書室に来るでしょう?」
ここにいて本のことを話すことは少ないけれど、ときどきどの本がおすすめかと訊ねられる。そのたびに何か一冊教えて、返す時に「面白かったよ」と言われるようなやり取りを何度かしていた。
けれど、それは毎回ではないし、何も借りず、何も読まずに帰ることが多い。そもそも最初に会った時になぜあの場所に大西くんがいたのかも、気になっていた。
「それは…本が好きっていうか……」
大西くんはハッとしたあと、何かを言いかけて気まずそうに横を向いてしまった。
何か聞いてはいけないことを聞いたのかしら。
「あの、ごめんなさい。答えたくないならもう聞かないから…」
「違う。言いたくないんじゃないよ」
「え?」
キッと真剣な顔でこちらを向いた大西くんが爆弾を落としたのは、その直後だった。
「増川さんのことが好きだから、図書室に来るんだ」
それだけ言うと、大西くんは走って図書室から出て行ってしまった。
好き?
大西くんが、あたしを?
言われたばかりの言葉が何度も頭の中に響いて、じんわりと意味を理解すると、頬の辺りがものすごく熱くなった。
「ええ〜…」
男の子とまともに話すのは彼が初めてだし、そんなことを言われたのも生まれて初めてだ。
どう対処していいのかわからなくて、カウンターの中で一人、頭を抱えて途方に暮れた。
昨日起こったばかりのできごとを依子ちゃんに教室でこっそり話した。
「人の恋愛に首突っ込むのは面倒だから好きじゃないんだよねぇ」
と言いながらも、依子ちゃんは他でもない悠美のためならと話を聞いてくれた。
「まあ、最初に聞いたときからそうだと思ってたけど。それで、悠美はどうなの? 大西君のことどう思ってる?」
問い返されて、とっさに何も言えなかった。
大西くんは格好いいと思うけど、教室で見る彼はあたしとはあまりにも違う、遠い世界の人のようだ。一緒にいると確かにドキドキするけれど…。
「あたしは、大西君みたいな明るくて格好いい人には似合わないよ。あたしなんて暗いし、本が友達の人見知りだし、可愛くもないし…」
「だあ、もう。違うって悠美。自分のことじゃなくて、悠美自身が、大西くんをどう思ってるのって聞いてるの!」
パン、と平手で机を叩いた依子ちゃんは、らちが明かないなぁと言ってあたしを見た。
こ、怖い。
「…大西くんは、いつも優しくて、あたしがたくさん本を持ってると重いだろって言って持ってくれて」
「うん、それで?」
「それからよく図書室に来るようになって、ときどき仕事を手伝ってくれたり、カウンターの所で話をしたりするようになって」
今、大西くんの顔や声や笑顔を思い出してドキドキしているあたしは、どんな顔をしているのだろう。きっと最高に情けない顔をしている。震える手を、頼子ちゃんが握り締めてくれた。
彼のことを考えるだけでこんなに嬉しいなんて、おかしくなっちゃったのだろうか。早く大西くんに会える木曜日になってほしい。早く会いたい。顔を見て声を聞いて、話をしたい。
ああ、やっぱり、そうだ。
「あたし、大西君のことが好き」
「本当? よかった!」
「えっ!?」
突然出された大声に驚いて振り向くと、いつの間にか大西くんが真後ろに立っていた。
「お、おお大西くん! 今の聞いて…?」
彼はあたしを見たままコクンと小さく頷いた。
ああぁ恥ずかしい! なんでいつの間にかいるの!? どうしよう聞かれちゃったよ、あんなこと言って嫌われちゃうよ! ここに穴があったら今すぐ入ってしまいたい!
なのに大西くんは、昨日の告白が何事もなかったようにけろりとして、あたしを見てニコニコ喜んでいる。…目がキラキラしていて、何がどうしてそんなに嬉しいの?
「昨日の返事どうかなと思って聞きにきてみたら、増川さん一生懸命喋ってて気づいてくれないし。それともまだ言うの早すぎたかなとか、昨日言うだけ言って逃げちゃったのはやっぱりまずかったかなとか色々考えたんだけど」
「えそんな、だ、だってよりちゃんが何も言ってくれないから…」
まだ何がなんだかわからなくて混乱したままで、あたしの体に向かい合うように座っていた依子ちゃんを見た。すると彼女はあたしを見て、ニヤニヤ笑っていた。
「本当にね〜、悠美ったら全然気づかないんだから」
「よりちゃん!!」
「まあまあ。それより大西くん。悠美のこと頼んだね。この子、すごい人見知りで奥手で大人しい子だから、壊れ物以上に大事に扱ってね」
恥ずかしくなって叫んだあたしをものともせず、よりちゃんは立ち上がったあたしの肩をむず、と掴むと大西くんに差し出した。
ぎゃああ、何するのよりちゃん。皆見てるし恥ずかしいし、大西くんの目の前だし!
「もちろん。何週間も図書室に通い詰めてやっと落としたんだから、大事にするよ」
満面の笑顔で差し出されたのは、大西くんの手。
もう何がなんだかわからなくて恥ずかしくて、まともに大西くんの顔を見れない。
けれど、こうして会えるだけでもドキドキして、嬉しいと思ってしまうのだ。
紛れもなく、あたしは、大西くんが好きだ。
「よ よろしくお願いします…」
小さく言うと、あたしは大西くんの手に自分の両手を重ねた。
少し湿っている大西くんの手は、大きくて温かかった。
(おわり)
相互リンク記念にLandscapeの友紀様より頂いた素敵な短編です。拙サイトにはない爽やかな風が吹くようなかわいいお話をご堪能下さい。 このお話の著作権はLandscape(18歳未満禁止サイト様にて閲覧にはご注意ください)の友紀様にあります、お持ち帰り、転載などなさらないようにお願いいたします。