全く知らない相手に突然呼び出され、おまけに二言三言囁いてみれば踵を返すようにその子に逃げられた工藤綾音は、涙を溢れさせながら呼び出した相手が走り去っていくのをぼんやりと見つめていた。
顔を真っ赤にさせながら走っている見知らぬ女の子は、綾音の性別が男であったならばあらぬ誤解を招く要因となっていただろう。
少しの罪悪感と、それを遥かに上回る特定の人物に対する復讐心で、綾音の胸の中はある種の達成感に満たされる。
ふと、人の気配に振り返ると、只一人だけ素の自分というのを知られている人物がしたり顔の笑顔を浮かべて近づいてくることに気がつく。
「またまた、相変わらずですな」
「ふふふ」
極上の、だけれども、どこか螺子の外れた笑顔を貼り付ける。
「私にそれが効くと思ってんの?イマサラ」
呆れた風にため息をつく相手を見据え、これ以上無駄な筋力を使う事を放棄する。
「で?正樹関係?」
「そういうこと」
「どこがいいかなぁ、あんな男の」
「顔。それ以外に価値はない」
「毒舌だねぇ、イトコ殿は。そうやって息をするぐらい自然に棘を吐き出せるあんたの姿を皆にもみせてやりたい」
「ふふふ、いやね、千佳さんってば」
「だーかーらー、私に対してまで…」
再び抗議の声をあげようとした千佳が、第三者の存在を感知して押し黙る。
「とりあえず教室帰ろうか、綾音ちゃん」
「うん、もう授業はじまっちゃうし」
空々しい会話をかわしながら、綾音は少し背の高い千佳と連れ立って歩き出す。
自分たちの姿を遠巻きに眺める下級生、同級生達の姿を感じながら、綾音は仮面を被りつづける。
綺麗で、かわいくて、育ちがよくって、だけど少しだけ頭の足りない工藤綾音という人物の仮面を。
お泊りと称して千佳の家へとやってきた綾音は、何時来ても暖かく迎えてくれる人のいる千佳の家にすっかりと馴染んでいる。
思いっきり下町のおかあさん、という千佳の母親は懐が深いのか、兄弟にくっついてくる友人達を差別することなく迎え入れては、その中心で豪快に笑っていられる女性だ。最近では、肝心の実子がいないにもかかわらず夕食をたかりに来る人間まで現れ、おまけにその赤の他人を上手く家事や手伝いに関わらせ、後ろめたい気持ちなど微塵も感じさせないようにもしている様子。基本的に外面の良い綾音は、さすがにそれほど図々しいまねはできないまでも、随分とこの家にお世話になっていることを自覚している。だからこそ、折に触れて土産を持参する彼女は、千佳を含む兄弟の友人達の中ではだんとつで母親の評価が高く、それもまた足繁くこの家へと綾音が通いやすくする作用をもたらしている。
今日も、誰だかわからない若者と、綾音を含めた大勢の食卓は賑やかで、それに引き換えと、自分の家での寒々しい食卓を思い出し少しせつなくなる。
そんな彼女に気がついているのかいないのか、風呂上りの千佳は、炭酸飲料を両手にフスマを足であけながら、綾音が先にくつろいでいる千佳の部屋へとやってきた。
図々しくも先にお風呂を済ませた綾音は、まだしっとりとしめった髪を鬱陶しく思いながらも、千佳から炭酸飲料を受け取る。
「なんであいつがもてるかね、いくら顔がいいとはいえ」
「つれて歩く分にはちょうどいいから?下半身に節操はないが」
「まあ、ねぇ。そろいもそろってどうしてあんたのところにやってくるかな」
「性欲旺盛ではあるけど、学内では手をだしていないし。面倒なことになるからって、それぐらいの理性は持ち合わせているらしい」
自信に満ち溢れ、ともすると他者を見下した態度をとりがちな正樹の顔を思い出す。
どれをとっても、綾音にとっては憎たらしいものでしかなく、しかもそれが血の繋がった従兄となれば、憎悪も倍増するというものだ。
従兄という情報がどこから漏れたのかはしらないけれど、それをつてに校内では素っ気無い態度をとっている正樹と取り次げ、と女の子がやってくるのは二週間に一度ではきかない。ともするとクリスマス前の雰囲気が浮ついている時期などには、連日といっていいほど同級、下級を問わず綾音のもとにやってくるのだから、鬱陶しい事この上ない。
「あいつの好きなのは胸が大きくって、だらしのない雰囲気の大人の女だって、正直に言えば一番いいんだけど」
「今日はどうやって追い払ったわけ?」
「ん?あいつは母親思いだからおばさんのようにふくよかな女性が好きみたいだよって、言っただけだけど?」
「なんか、来週には微妙に巨乳年上好きのマザコンっていう噂が出回っているような気がするんだけど」
「あいつのところにまで噂は届かないみたいだからいいんじゃない?裸の王様ってかんじで」
「それだけじゃないでしょうが?今日の子泣いていたみたいだし」
「ああ、ばれてた?ちょっとね、あまりにも真剣に私との仲を疑うものだから、つい」
「校内で仲良くするのはあんたと生徒会の面子ぐらいだから、疑われても仕方がないっちゃないけど」
「好きなくせにどこを見てんの?って、怒鳴らなかっただけ褒めてくれ」
多大な自制心を要しながら、綾音は彼女にはただ教えてさしあげただけだ。
あの時の正樹が好きなことをあることあること、少しだけ誇張して。
なにせ、正樹の初体験は綾音で、綾音の初体験の相手は正樹なのだから。
今思い出しても、あれは正樹からの一方的な暴力、としかいいようがないものだった。
男女の区別なく無邪気に遊んだのは小学生までで、一足先に体も心も大人に近づいていった正樹は、そういった方面への好奇心も人一倍旺盛で、なおかつ若干早くやってきたらしい。そうなると発散する方法をなんとかして探ろうとするのは馬鹿モノとしては当然のところで、手短で安全でなおかつ口封じのできる相手が綾音であっただけだ。
なにせ、ご近所に住むいとこ同士、正樹の父である伯父さんと綾音の父は仲良しで交流も深い、おまけに共働きだった母親は、正樹の母親が何も言わないことをいいことに託児所のように正樹の家へと綾音を放り投げる。しかも、正樹は正樹で周囲の評判がやたらめったらいいことを盾にして、綾音をまるで子分のように扱った。傍目には仲の良い親戚同士に見えたかもしれないが、内実は正樹に身心ともに搾取され続けた毎日だ。
綾音の性格が現在のように多少歪んだところで仕方がない。
馬鹿の一つ覚えのようにまだ幼い綾音に欲情し続けた正樹は、それでも周囲の期待通りに県内一の進学校に合格し、なぜだか綾音もそれにくっついていくようにしてその高校へと入学することとなった。
その合格に一番驚いたのは正樹で、その次は両親であった。
なにせ娘の成績はど真ん中もど真ん中で、お世辞にもできる子、とはいえなかったからだ。
だが、綾音の「山があたっちゃって」という邪気のなさそうに見える笑顔にころっと騙された正樹達は、顔はいいけど頭は足りない、という綾音の評価を変えてはいない。
当然、その評価は現在も継続中であり、それが自分に対する周囲の評価でもある。
真実を知っているのは、目の前でケラケラと笑っている千佳だけである。
「よく化けの皮がはがれないよな」
「んーー、もう一部みたいなものだし」
正樹からの被害を最小限に食い止める方法として馬鹿のふりを覚えた綾音は、今では自分の皮膚のようにそれを扱えている。唯一ばれたのが千佳であり、今ではこうやって息抜きできる空間を得ることができて本当に良かったと思っている。
「で?最近は誘いがないわけ?」
「飽きたんじゃない?たぶん」
中学時代はそれこそ毎日のように綾音に苦痛を強いていた正樹だが、高校に入ってからは年上を口説く術を覚えたのか、綾音を求めることがほとんどなくなっていた。手近なオモチャは、しょせん代替品、一時凌ぎでしかないのだ。
「まあ、それももうすぐ完全に終わるけどね」
一番気が緩みがちな夏休みを乗り越え、どうにか正樹との接触は最小限に抑えられている。後は、受験生らしく志望校を絞り込み、勉強に励む毎日が待っているはずだ。
二人で意地の悪い笑い方をして、ようやく床につく。
18年間の奴隷生活が終了するかと思うと、卒業式が待ち遠しくて仕方がない、と、声にならない声で呟きながら。
おそらく、最初で最後の、それは綾音のささやかな復讐なのだから。
「よう、久しぶり」
こちらをねっとりとした視線で捉えながら、正樹が綾音の元へと近寄ってきた。受験生らしい空気が蔓延する中、余裕の表情で中身を知らない女子生徒の、いや、男子生徒も含めて羨望の視線を一身に受けている。
確かに、スペックだけを考えれば、この正樹という男は上等の部類に入るのかもしれない。
程よい高さの身長とそれに見合った体格、期待を裏切らない運動神経、おまけに常に一番ではないけれど、10位以内を外した事はないという成績をもてば、目立たないでいられる方が難しいだろう。それに加えてこの容姿だ。
一度も染められた事のない黒髪は艶やかで、性格の悪さを微塵も感じさせない目元は常に理知的に微笑んでさえいる。強烈な美形、というわけではない代わりに、誰からも嫌われない容貌をもちえている。
それは、綾音にしてもいえることで、同姓からも嫌悪感を持たれない美貌、という点では、やはり二人の血のつながりを誰しも否定できないところかもしれない。
そんな共通点すら、綾音は嫌悪感しか覚えていないのだけれど。
「久しぶりぃ、元気だった?」
理系と行っても私立狙いの綾音のクラスと国立や上位校を狙う正樹のクラスが異なり、幸いなことに規則的に成績が平均的になるように振り分けられる一年生の時も、二人は同じクラスになることはなかった。
それでも、二人が割合と仲が良い、という情報が出回るわけは、こうやって正樹が定期的に綾音に声をかけるからである。
まるで、いらなくなったおもちゃにも占有権を主張するかのように。
内心の嫌悪感を押し隠し、ひたすら頭の回転が緩い女の笑顔を湛えつづけ、正樹は満足そうに綾音とのやりとりを楽しんでいる。
美貌のいとこ、隣にいて不快ではない程の知能はあっても、小賢しいほどの知性はもち得ない存在。絶対に自分を超えることはおろか、足元にすら届かない矮小な存在。
おそらく、正樹にとって、綾音の存在はこの程度のものだろう。
常ならば素っ気無い態度しかとらない正樹のにこやかな対応に、いつも行動を共にしていると噂される前生徒会副会長が眼鏡の向こう側から綾音を睨みつける。
そんな女同士の鞘当などに気がつかないふりをして、正樹が望む綾音としての会話を続ける。
「志望校決まった?」
「ああ、まあな」
「正樹君は頭がいいからぁ、きっとどこでも受かると思うの」
「そうかな?」
「うん、そう思う。うちのクラスでも正樹君あたまもいいし格好いいぃって噂になってるしぃ」
「女の噂は恐いからなぁ」
「ひどーい、ちゃんと正樹君はとってもとっても格好いいって、言ってるもん」
反吐が出そうなほどの甘ったるい話し方に、こめかみの辺りが引き攣ってきそうになるのを堪える。前副会長はこちらの会話が耳に入っているはずなのに、完全にこちらを見下したような顔をしてそっぽを向いている。
「それに、正樹君はあそこ受けるんでしょ?伯父様と同じところ」
伯父さんはとても頭が良い子どもとして評判であったらしく、国立の単科大学へと進んでいる。それこそ少し不公平なほど祖父母が溺愛していた伯父は、自慢の息子であり、また、その子どもである正樹は自慢の孫なのである。
孫という立場は同じものの、スペア扱いの次男の、おまけに要らない扱いされた女孫の綾音とは、まったく扱われ方が異なり、現在に至ってもその差別は続いている。
「うん、まあ、迷っては、いるんだけど」
「ええーーーー!正樹君が?」
「なんか、俺には向いてないってさ、担任のやつが」
「うそだーーー、きっと正樹君があまりに頭がいいから嫉妬しているんだよぉ」
「そっかな?」
「そうだよ、絶対。だって、正樹君ぐらい頭がいいのに受からないわけないもん。きっと伯父様だって喜ぶよ」
「ははは、そっか、そうだよな」
「そうそう、嫌な人だね、正樹君が出来すぎるからってそんな嫌なこと言って」
綾音の心にもない甘言に上機嫌となった正樹は、隣に待ちぼうけを食らわされていた前副会長に促されて、ようやく次の授業が始まりそうなことに気がつく。すぐにでも歩き出そうとする彼女を先に行かせ、二言三言、綾音の耳元で囁く。
そのあまりにも親密に見える行動に嫉妬心を露にしながら、前副会長が綾音を睨みつけ、正樹の腕を強引に掴む。
綾音は、ニコニコと微笑みながら、先ほど正樹が呟いた「まだ抱いてやるから」という言葉を心の中で反芻させ、正樹の背中に向け、冷酷な笑みを浮かべる。
一瞬だけ外れた綾音の仮面は、すぐに元に戻され、綾音は皆が知る綾音となる。
ニヤニヤと二人のやりとりを教室内から眺めていた千佳は、そのあまりに早い切り替えに舌を巻きながら、彼女を敵に回さなくて良かったと胸を撫で下ろした。
「正樹に近寄らないでちょうだい」
そうやって甲高い音をさせ、綾音の頬を張り飛ばした前副会長伊田皐月が吐き捨てる。
あまりに理不尽な行ないに、それでも沸き起こる好奇心を隠せずに、綾音は痛みを持った頬を右手で擦りながら伊田の表情を窺う。
どうやら、あまりにも頻繁に綾音の元へと通う正樹に我慢がならなくなったようだ。
だが、こちらから出向いているわけでもないのに、当事者とはいえ綾音に言われてもどうしようもない。確かに、最近の正樹は綾音を誘うかのように、甘い言葉と無意識に見下した発言を繰り返しながら綾音に接触を計る事が多い。そのたびに、千佳の、もしくは担任教師の助けによって、曖昧な笑みを残しながらも正樹の手から逃れることが出来ている。
しかしながら、人前での二人は仲の良い男女にしかみえず、ようやく正樹と綾音が恋人同士になったのだと噂されることも仕方がないことではある。その両者の思惑を知らなければ。
正樹は、受験前のせいなのか、女遊びができずにいるらしく、当然今までやりたい放題やっていた身にはその禁欲生活は堪えるらしい。目の前に綾音というあとくされのない餌があるのに手を出さないはずはなく、幾度となく露骨に綾音を誘いにかけている。その度に内心は辟易しつつも、笑顔で千佳との約束や、担任がいいつけた用事があるといった具合にすり抜けているのだ。
「うーーん、私が叩かれる謂れはないと思うのだけど」
「なによ!ちょっとぐらい顔がいいからって正樹に言い寄って」
「言い寄るもなにも従兄同士だし」
「うるさい、あんたは正樹なんかじゃなく、もっとそのおつむに見合う程度の男と付き合っていればいいのよ!馬鹿なくせに」
口角を上げ、笑顔を形作り、必死な形相をした伊田を観察する。
そう整っている、とはいえない顔立ちも、頭のよさが滲み出ているせいなのか、それなりに知的美人、といった雰囲気を醸し出している。
もっとも、鬼の形相で綾音に詰め寄る姿からは、その片鱗すら窺えはしないが。
どうして、この人があんな男にほれるのか、と、その理不尽さに、すっと綾音がその仮面をはずす。
突然雰囲気が変わった綾音にたじろぎながら、それでも気を張って綾音を威嚇する。
「あんな男のどこがいいのかしら?」
「あんな男って」
いつもにこやかに、正樹と会話をしている綾音の否定の言葉に驚きを隠せないでいる。
「サディストで、傲慢で、人を人とも思っていないような人間、どこがいいの?」
半歩ほど後ろに下がった伊田を、一歩進めて追い詰める。
「あの男がどういう生活を送っていて、どういう性癖をもっているのか、あなたに教えてさしあげましょうかしら?私がされてきたことと一緒に」
一刻ほどして、二人が話しあっていた場所には、伊田だけが取り残された。
両手を地面につけ、半ば腰が抜けたように呆けた伊田皐月は、それ以降正樹へ纏わりつくことをやめた。うっとうしくて、それでも外面のおかげで伊田を振り切れなかった正樹は、安堵こそすれ、その理由を探ろうとはしなかった。
裏で、かわいくて頭が弱い従妹が暗躍していることに気がつきもしないで。
「あんた、何やったわけ?」
「んーー、ちょっと私と正樹の馴れ初めについて教えてあげただけ」
「……、そりゃ下手なホラーよりよっぽど恐い」
伊田さんから絡まれたその日は、千佳の家へ行っておばさんに癒される事にした。当然、あっという間に拡がった噂の真実を聞きつけるべく、千佳は興味津々と質問をする。
しかし、綾音が正樹から行なわれてきことを全て知っている千佳としては、綾音のその言葉だけで充分伊田皐月が受けたショックを推し量ることができた。
あの虫も殺さなさそうな優男があんなことを従妹にしでかすだなんて。
いまだあの時自らが上げた悲鳴が耳に残っている綾音は、弱弱しく頭を振る。
どれだけ振り払っても、あの時の感触が忘れられないでいる。
同時に、こちらを人ではなくただのモノのように扱った正樹の常軌を逸した両目の光さえも。
正樹の手から逃れつつ、受験勉強をこなすことは容易ではなく、図書館と千佳の家、もしくは抱き込んだ担任教師の家を行き来する事でどうにか避けることができた。
今までとは違い思い通りにならない綾音の存在を忌々しく思いながらも、体面を気にする正樹はそれ以上強引に綾音に迫れないでいた。
中学時代とは違い、仕事をセーブした綾音の母親が在宅する率が高くなったことも、正樹の行動を阻む手助けをしている。あまり母親と親しく口を聞いたことのなかった綾音も、理想の娘らしく家事を手伝いながら、仲の良い親子を演じている。ただし、娘の成績が芳しくない事を知っている母親は、進路に関してはさしたる興味も示す事はなく、自分の娘は偏差値では自慢にはならないけれど、伝統だけはあり、見栄のはれる私学へ進学するものだと信じ込んでいる。綾音も否定してはいないし、好きに使ってよい、という通帳に入れられた受験対策費用を存分に利用して、自らの思い通りにその道を固めはじめている。
受験シーズンも後残り僅か、両親は綾音が受ける必要はないセンター試験を受験した、という事実さえ知らないでいた。
「ようやく、だね」
「ようやくだ」
長かったような短かったような三年間が終わり、綾音と千佳は無事卒業式を迎えることができた。
受験結果はすでに発表されており、希望通りの進路を手に入れたものや、浪人するもの、はたまた不本意な結果を受け入れざるを得ないものまで様々な人間模様が見て取れる。
その中で、千佳はスポーツ科学をやりたい、という情熱のもと、この学校からはあまり進学する事が少ない専門の学科が存在する大学へと合格することができた。もちろん、本人もスポーツには自信があり、バスケではレギュラーを一年生の時から獲得していた。どちらかというとあまり強くはないこの高校のバスケ部も、彼女が在籍した三年間はそこそこの成績を得る事ができていた。
綾音は、というと先日届いた合格通知を思い出し、周囲が彼女に抱いているイメージとはかけ離れた笑みを浮かべる。
「それにしても、正樹が浪人、ねぇ」
「あら?浪人なんて出来なくってよ」
ほとんど登校せずに周囲と情報交換をしなくとも、正樹が第一志望を落ちた、という事実はあっという間に綾音と千佳の耳にも届いた。もっとも、綾音の方はやけに嬉しそうな母親からの報告でそのことを知ることになったのだが。
やはり、えこひいきされた長男嫁の自慢の息子、というのは羨ましい、と思う以外の気持ちを抱きやすいものらしい。
「だって、後に二人も控えているし」
正樹は長男だ、後にはそこそこ優秀な次男と、勉強はあまり好きではない三男が控えている。しかもそれが三つ下四つ下の弟達とくれば、親の経済的負担は並大抵ではない。正樹が浪人をして一年入学が遅れれば、大学に同時に三兄弟が通わなければならない年が出てきてしまうのだ。正樹の父親の稼ぎは平均よりはやや上、とはいうものの、同時に大学生を三人も抱えることを考えると、浪人を躊躇う気持ちもわからないでもない。おまけに、あの両親は出来の良い息子が大学受験に失敗するなどというイレギュラーな出来事を全く想定していない。腕試しのように受けた、世間体の良い私立大学は当然合格はしているが、そこへ通うことを考えれば一年浪人した方がましであり、しかし、そうすれば三兄弟が同時に大学へ在学する可能性が高くなる上に、特に三男は大学と名のつくところならば全国どこへでも、というレベルの成績であり、正直なところ余剰分はほとんどないのだ。頼みの綱の奨学金や入学金免除の制度は、両親が望むクラスの私学ともなると正樹はまさに井の中の蛙であり、それらの恩恵を得られる立場にはない。そもそも、当の両親が浪人する事を是としていないのだから、正樹が取る選択肢は驚くほど狭いものとなる。
「だから、おまけで受けたような大学に行かざるを得ないんじゃない?」
国立ならばたとえ下宿をさせたとしても私立に行かせるよりも安上がりだ、まして正樹の成績なら奨学金も通りやすいに違いない。だから、どれだけ本人が不本意だとしても、彼はおそらくその彼にとって不満足な、後期入試で合格した大学へと進学することになるのだろう。
綾音の思惑の通りに。
「あんたもよくやるっていうか」
「ああいうタイプはこんなちっぽけなものが人生の一大事になる人間だから、こういうダメージが一番へこたれる。早速お気に入りの長男孫を飛び越えて私にお祝い言ってきたぐらいだし、じーさんも」
「なーんか、歪んでるよね、あんたんとこ」
「うん、千佳んとこみたいに年中ハワイみたいなあったかい一族じゃないんだ、うち」
「噂をしたら、凄い顔してやってきた」
ケラケラと笑いながら千佳が指をさす。
まるで世界一の不幸と、空よりも高い恨みをミックスしたような表情で正樹が綾音と千佳の下へとやってくる。綾音は、いつものように口角をあげ、どれだけ勉強は出来ないと蔑んでいようとも見惚れるような笑顔を浮かべる。
「どういうことだ」
「うふふ、どういうことって?」
「ふざけるな!」
伊田皐月が綾音の頬を叩くよりも、低く重い音が周囲に鳴り響く。元々注目をされる組み合わせだというのに、感傷に浸っていたはずの同級生たちですら、彼女と彼の動向に目を向け始めた。
「……いつもの外面のよさはどうしたわけ?」
正樹と千佳にだけ聞こえるような小声で囁く。
だが、その声は今まで能天気に振舞ってきたいつもの綾音のものではなく、本来の、素の綾音を隠そうともしないものだった。
「お生憎さまね、悪いけど、私ってあんたより頭いいんだわ」
熱を帯びた頬を抑えながら、いつもは一方的に送られていた視線、見下されたそれを正樹に投げつける。
「くそっ!騙しやがって」
「気がつかない方がどうかしてんじゃない?だって、私小学生の時はあなたよりよく出来てたでしょ?」
綾音にとっては思い出したくもない過去のことだが、事実綾音のほうが成績は良かった。もちろん小学生のレベルなどたかが知れているし、そこから伸び悩む者も多い。だから、正樹はそんなことは忘却の彼方においやり、綾音のことを侮っていたのだから。
「それに、うっかりで受かるほどここの高校ってレベル低いわけ?」
さんざん馬鹿に仕切った従妹が、自分と同じ高校へ通うことを快く思わなかった正樹だが、綾音の「うっかり」と言う言葉を盲目的に信じ込んでいたのは、恐らく己のプライドを保つためだったのだろう。馬鹿でのろまな顔だけはいい従妹が自分と同じラインに立つ事を恐れて。
「本当に馬鹿よね、昔っから」
物心がついたころより正樹からぶつけつづけられた言葉を、ようやく綾音は正樹に投げ返す。
彼女は、この日このときのために、用意周到に準備してきたのだから。
「おまえがあそこを勧めたのは、わざとなのか」
怒りを通り越して青白い顔になった従兄は、両の拳を握り締める。
「ようやく気がついたんだ。あたりまえでしょ?あんたのためを思ってしたことなんか、今まで一度もない」
一方的に搾取され、少しでも秀でたところがあれば暴力に訴えてでも押し付けてきた従兄に多少の血が繋がっているとはいえ、一度も暖かい気持ちなどもったことはない。
テストの点が良かったと知られればいじめられ、先生に褒められたとわかれば物陰で殴りつけられた過去は忘れられるものではない。
まして、成長した綾音に邪まな思いを抱き、圧倒的な力の差でその体を傷つけたのだから。
長男の長男、という伯父や祖父母から与えられたプレッシャーが、彼の価値観や倫理観を歪めていったことには違いないが、だからといってそれを身近な力が弱い物に当たっていいというものではない。
「覚えてろよ」
いいかげん注目の的になっていることに気がついたのか、踵を返すようにして正樹が逃げ出してく。
ようやく人心地ついたと、まだ腫れた頬を擦っている綾音はため息をつく。
「あいつも馬鹿だよねぇ、大人しく先生の言う事を聞いてりゃいいものを」
正樹が志望した大学は偏差値こそ担任が進めた大学よりも若干上であり、彼にとっては高望み、というレベルではない。だが、大学側が欲する学生の質が微妙に異なっており、正樹は決定的にその部分が欠けていた。平均的に優秀な学生を望む大学と、将来の専門科目が特に秀でて優秀な学生を望む大学。その両者では二次試験の対策が異なってくる事も必須で、それ以前にそれに対応する資質が必要なのだ。残念ながら正樹はそれを見誤っていた、綾音の甘言があったとしても、自分の実力をもってすればどの大学も楽勝だと高をくくったことは間違いなく、だからこそあんなにもあっけなく綾音の言葉に踊ってしまったのだ。
その結果、恐らく僅かな差で第一志望を不合格となった正樹は、以前なら鼻にも引っ掛けなかったであろう第二志望の大学へと進む事になるだろう。
己が撒いた種は、己で刈り取るしかないのだ、所詮。
「しかも、その大学に綾音がさくっと合格しているんだから。あいつのトラウマにならなきゃいいけど」
「なってもらわなきゃ困る。妬んで恨んで、もっと性格が悪くなって足掻いてもらわないと」
「やっぱ、私あんたの敵になるのだけはやだ」
「私も千佳のお母さんだけには嫌われたくないし」
「かーちゃんかい」
ぬらしたハンカチを差し出され、二人の会話は終了する。
心配そうな同級生と、照れながら近寄ってくる下級生の群れに、綾音は今までで一番良い笑顔を浮かべる。
綾音のささやかな復讐は終了する。
本当に、色々な意味での今日は卒業式なのだから。