「もう来ないから」
日常会話の中にさらりととんでもない言葉をはさみこむ。もちろん、油断している相手が驚いてくれることを前提に。そんなことを考え、あまつさえ実行してしまう自分は、誰かさんのせいでとても性格が悪い、ということは自覚している。
案の定、聞き逃しそうになった私の言葉に、彼は咥えていた煙草を脚の上へと落とし、熱さのためか意味不明のことを喚いている。
失態を繰り広げている彼を一瞥し、バッグを抱え外へと向かう。
私を呼び止めようとする声を無視して、ドアへ進む。影が私に覆い被さり、急激に右肩に痛みが走る。
思わず顰めた顔に気がついた彼は、その手を緩めはするものの、放してはくれない。どちらかというと肉付きの薄い私の体は、ただそれだけでも跡が残りそうで、憂鬱になる。
「どうして」
「どうしてって、それをあなたが言うの?」
聞きたいことが山程ある、という顔をして、でも何から聞いていいのかわからないこの人は、たぶん一番素直に思ったことを口にしたのだろう。だけど、その言葉こそ私の方が聞きたかったことで、それをきっかけに黙っておこうと思った汚い心が噴出してしまう。
「私って何?」
「何って」
「あなたにとって私って何?何者なわけ?」
いつも聞きたくて、聞けなかった言葉。
こうやって休日のたびにちょくちょく顔を出し、だけど、二人きりの部屋で何をするわけでもなくダラダラと思い思いに過ごす。それはそれで居心地のよさを感じてはいた。だけど、それだけでは嫌だというのは本当のところで、それは、私が成長すると共にはっきりと心の中に芽生え、大きくなっていった欲求の一つ。出合った頃のように、ただおもしろいお兄さんと遊べればいい、なんてずっと言っていられるほど私はもう子どもではなくなってしまったのだ。
私と彼は年の差がある。
私は気にした事がない、といえば嘘になるけれど、だからといって誰にも話せないほどそれが不道徳なことだとは思っていない。だけど、彼の方は私ほど歳の離れた少女と二人きりで過ごしている、という事実そのものを後ろめたいことだと思っているらしい。例え二人の間に何もないのだと大声で叫べるほどの関係だとしても。
一世代以上離れた年の差は、永遠に埋まる事はないし、もちろん共通の話題だって少ない。学校のこと、授業のこと、学生の私にとって生活のほとんどを占める話題ですら、彼の時代と私の時代では異なるらしく、おまけに感覚すら違うことからあまり話題にして楽しいものではない。救いの無いことに、二人の間には共通の趣味一つあるわけでもない。
だけど、私は彼の側が居心地が良かった。
会話なんかなくても、ただ隣にいればそれで良かった。
一向に縮まらない距離も私の知らない彼の世界もまるで気にならなかった。いつかはきっと、なんて夢を見てもいたけれど、以前の私は、それだけで我慢できるほどのお子様だっただけだ。だけど、そんなものが一生続くわけがない、というのもどこかでわかってはいた。私はどんどん大人になるし、今までの曖昧な関係で満足できるわけがない。しかも、こちらを縛り付けるくせに、こちらを振り返ろうともしない相手に対して。
自分は好き勝手やっているのに、私の周りに男の影がチラチラすることを嫌っていたことも、私の事を憎からず思っているに違いない、なんて楽天的に思っていた。
「で?私はあなたにとってどういう存在なの?」
口に出せなかった疑問が堰を切る。
自分の側に縛るだけ縛って、だけど私には一切何も与えない。
好きと言う言葉も、ただの友達の妹だ、と突き放した言葉も、両方言えない。
ずるくて弱くて、だけど大好きな人。
「存在って」
「別に来ても来なくてもどうだっていいでしょ?何をするわけでもないのだし」
「いや、でも」
「私にも付き合いってものがあるし」
「学生の本分は勉強で…」
「あのさ、兄さんから色々と聞いているんだけど?」
「俺はいいけど、でも、女の子なんだし」
「そうね、女の子だから、色々あるの。デートだってしたい」
どの単語にひっかかったのかは明白だけど、それでもまだ一言も言い訳すらしない彼の握る力が強くなる。
「そっちも勝手にすれば?って。もう勝手にしてるわよね。別に私に言い繕う必要なんてないんだし」
「だけど!」
「だけど?何?」
「いや……」
どこかで何かを期待していた心が小さくしぼんでいく。
彼にとっての私の存在は世間体を乗り越えるほどのものではなく、ただコソコソと近くにいればいいだけの存在でしかなく、私を手放したくない思いなど、プライドと外聞を切り捨ててまで欲する程強いものではないのだと。
「放してくれる?」
「いやだ」
「兄さんを呼ぶけど?」
あっさりと手放すその右手を視線が勝手に追いかける。まだ、私は未練を残しているらしい。
「もうこない」
最後まで何も言わなかった彼は、引き結んだ唇を開こうとはしなかった。
私を振ることも引き寄せることも出来なかった男。
「さよなら」
閉じられたドアは、これで永遠に彼との関係が切れてしまったことを現しているようで、胸が痛む。
大好きで大好きで大好きだった人。
さよならがこんなに辛い言葉だなんて知らなかった。
もうこない帰り道を一人歩く。
つかまれた肩の痛みすら現実離れしていて、地に足がついてくれない。
さよならがはじまりの言葉ならいいのに、と、心から祈るのに、私の祈りはきっとどこにも届かない。
いつまでたっても私は一人きりのままなのだから。