夏の匂い

 真っ青な空に、まるで白い絵の具で描きなぐったような雲。そんな風景もそろそろ終わり。まだ夏の気配がかすかに残るビーチを眺めながら、物思いにふける。
子ども達の呼ぶ声が聞こえる。
私はまた母に戻る。






 彼の様子がおかしいと気がついたのはだいぶ前だった。いくら温室育ちの私でもそれぐらいの機微はわかる。

「どうしたの?」

幾度となく口の端に登る疑問符は彼の耳には届かないのか、うっとうしそうな顔をしてただ首をふるばかり。

「なんでもない、少し仕事で疲れていて・・・」

待ち合わせのカフェに現れて彼は、確かに疲労していた。

「あんまり無理しないで、身体を壊したら」

そう言いかけた私を視線で威圧する。まるで女の私にはわかるはずがないのだと。

「ごめん・・・」

慌てて謝罪の言葉を口にする私に溜息を一つ落とす。
繰り返されたやりとりに内心うんざりもする。

「それで、今日は何の用?」
「招待客のリストだけど、そっちの方はよくわからないから、特に親戚とか」
「そんなもの・・・・・・、いえ、大丈夫です母にやってもらいますから」
「そう、だね。親戚関係はおば様に聞くのが一番だよね」

持参したリストの紙を握り締める。

「それだけですか?」
「うん、今のところは」

肩をほぐす仕草をしながら、再び彼が溜息をつく。

「では、私の方も仕事に戻りますから」

また仕事ですか?
そう言いそうになるのを堪える。彼からは二言目には仕事の文字が漏れてくる。
私は精一杯笑って見せて、彼の背中を見送るだけ。
テーブルの上で、一口も口をつけていないアイスコーヒーが濃度を薄めていく。まるで彼の愛情が四散していくかのように。
ピッチャーから乱暴にミルクを注ぎストローでかき回す。
じっとりと水滴を湛えたグラスからひんやりとしたものが指先に伝わる。
ほろ苦さが喉を伝わっていく。
これからもこんなやりとりが続いていくのかと思うと、目の前がわずかに暗くなるのを覚える。





「あんた、やせた?」

招待状を渡すついでに久しぶりに会った友人が開口一番こんなことを言う。

「そう、かな・・・ちょっと忙しいからかも」

仕事の合間を縫って、結婚式の準備をこなしていくのは思いのほか大変だ。それもほとんどの作業を一人で担わなくてはいけないとなると。

「仕事やめないんだって?」

そうなの、と曖昧に微笑む。
最近このことに関しては彼と口論が続いている、無論電話越しに、だけれども。
結婚を機に少なくとも仕事をやめて欲しい彼と、子どもができるまでは働いていたい私の意見は平行線である。このことについては私の両親ですら彼の意見に賛成している。
元々資産家だった母は、若くして同じく資産家の父の元に嫁いでいる。以来趣味と社交的な世界に生きている母には、共働きをしたいという私の意見などまるで宇宙語のように聞こえるのかもしれない。

「そのほうがいいかもね・・・」

ポツリと呟いた彼女の言葉はやけに意味深で、小石が水面にストンと落ちていくように私の心に波紋を描いていく。
その日は結局、当り障りのないやりとりをして彼女とは別れた。
最後まで何かを言いたそうな表情を隠そうともしない彼女。
本当はもうわかっていたのかもしれない、彼女が何を言いたかったのか。片目をつぶったままやり過ごそうとする、 何も知りたくない。全ての世界から耳を塞ぎたくなる。





 新居で先に生活を始めている彼の世話をしに、そんな大義名分がなければ、私の居場所でもあるはずの場所に近づけない。それほど彼との間には隔たりがある。
彼自身は私の気持ちの変化などには気がつきもしない。
鈍感なのかみくびっているのか。
今日も、簡単に掃除をしよう。そう言い聞かせながら鍵を差し込む。
カチリと開いたドアを重たい気持ちで開ける。目の前には私のものではない女物の靴が脱ぎ捨てられていた。
反射的にその靴を揃え、音を立てないように部屋の中へと進む。
引き返したい衝動と、もう終わりにしたい衝動が激しく葛藤する。
夏のせいばかりではない汗が額から流れ落ちる。
息を止めたまま、リビングのドアを開ける。
まるで生活感のないキッチンと、乱雑にゴミが散らかっているリビング。
誰もいないことを確認すると、軽く息を吸う。小さく深呼吸をしてさらに寝室の方へ近づいていく。
ここの居住者であるはずの私が、まるで泥棒のように息を潜めていることに滑稽さを覚え、笑い出したくなる。

 ドアを開けた先、彼と二人で使用するはずのベッドの上には見たこともない女性が眠り込んでいた。
一気に下がった体温で足元が揺らぐのがわかる。
辛うじて捕まっていたドアノブに力を込めて倒れないようにする。
わかっていたのに、わかってしまうと恐ろしくなる。
これで何もかも終わりなのだと。真実を知れば引き返せないのだと。

容赦なくまどろんでいる彼女のシーツを引き剥がす。
いきなり夢から引きずりだされた彼女は、2-3度瞬きをして、こちらの方に視線を合わせようとする。まだ視点が定まっていない彼女はゆっくりと息を呑むと、やがて事態を把握したのか軽く悲鳴をあげる。
大慌てでシーツを手繰り寄せ、何も纏っていない肢体を隠そうとする。

「誰?」

驚いた表情で固まったままの彼女が息を呑む音が聞こえる。

「私が誰だか知っているわけね」

私より年上であろう彼女は押し黙ったまま。

「悪いけど、伝えてくれる?もう茶番は終わりだから、って」

ずっとずっと心のどこかでこうなることを覚悟していたのか、思ったよりも気丈な言葉を吐く事ができた。
何も言えない彼女を残したまま、新居であるはずのマンションを後にする。

エレベーターのボタンを押す。
目の前がかすむ。
偶然私の待つ階で降りる住人が、驚いた顔をして私の顔を見つめる。
慌てて俯いた私は、地面にはらはらと落ちていく水滴に気がつく。
私は泣いているのだと、気がついた瞬間その場に泣き崩れてしまった。
怪訝そうに私を振り返る住人のことなどお構いなしに泣きつづける。
泣いて泣いて、涙も枯れはてるまで。





「ママー」
「なあに?」

小さな手を精一杯開いて、私に拾った貝を見せてくれる。
屈託のない笑顔につられ、私も笑顔になる。

「これあげる」

そう言って私の手に貝を落とすと、再び父親の元へと走っていく。
子どもは元気ね、そう呟いてパラソルの下へと戻る。
軽く砂を払って子どもの取ってきた貝を眺める。
夏の匂いがする。

久しぶりに思い出した昔の出来事は、もう思い出だと言い切れてしまうけれども、貝殻を置いた掌に涙が零れ落ちる。 いつのまにか波打ち際で遊んでいた筈の夫と子どもが心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
慌てて涙を拭く。
無理にでも笑って見せると、よく似た面差しで笑顔を返してくれた。
忘れかけていた思い出がひょっこり現れた夏の終わり。
もう大丈夫だと夏の匂いが囁いてくれた。

9.13.2005
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