大好き!でも大嫌い!

Information/03.25.2005(改稿10.27.2011)

 キッカケは確かささいなことだった。



 直樹兄さんが遊びに連れて行ってくれるというから待っていたのに、いつまで経っても来ないからわざわざ家まで迎えに来てみた。案の定まだぐっすり眠っていた兄さんは、私の急襲で起きざるを得なくなり、まだまだ寝足りないのに、といった風情で台所へと向う。
冷蔵庫からミネラルをウォーターを取り出し、そのまま口をつけて飲み出す。
その横顔を見て、いつもにはない些細な違和感を覚えた。

「あれ?直樹兄さんってヒゲ生えるの?」
「お嬢ちゃん何言ってんの?」
「ん?変なこと言った?」

直樹兄さんは頭の周りに渦巻きが見えそうなぐらい考え込んでいる。そんなにおかしなことを言った記憶がない私は、ただただ首を傾げるだけ。

「俺二十歳越えてるんだけど」
「知ってるよ、そんなことぐらい。だって成人式の写真見せてくれたじゃん」
「ははは・・・・・・そうだねって。本気で言ってるの?」
「本気って、だって今までなかったじゃんそんなの」

私が指し示す方向には、いつもにはない直樹兄さんの無精ひげがあった。会社で完徹をした兄さんはボロボロになりながら自分のマンションへとたどり着いた、らしい。
昼間になってスーツ姿、あまつさえネクタイすらはずさずにソファーで眠りこけている彼を見つけた時は、死体かと思って心底驚いてしまった。

「あのね、一日そらなければこれぐらい伸びるって」
「そうなの?ふーーーーん、そんなもん?」

半信半疑ながらも本人がそう言っているから仕方がなく頷く。

「美夏んちのパパって、そういえば体毛が薄いな」
「薄いっていうか、足には毛が生えてないよ、会社に入ったばかりのころに工場の高温槽に両足突っ込んで以来、毛穴が死んじゃったみたい」
「って、おまえな、それと比べるなそれと」

そう言いながら兄さんは自分のズボンの裾をまくる。

「げっ」

あまりなシロモノに思わず声が出てしまう。

「驚くなっちゅーの。これぐらい普通」

指を差したまましばし固まってしまう。これが普通って、このもしゃもしゃが普通って。
あり得ない。

「共学なんだから男の生足ぐらいいくらでも目にするだろうが」
「いや、そりゃあ目にするけどさ」

普通の公立高校だからね、とりたてて頭も良くない平凡な高校だし、男の子も半分いますよ?でも、直樹兄さんぐらいの年齢の人は、ちょっとお目にかかれないし。かといって先生方とこれほどの至近距離で知り合う機会はない、というより作りたくないよね。

「ごめん、ちょっと見慣れてないから」
「まあ、男兄弟もいないのにその年で見慣れられてても嫌だけど」
「そっか、男の人だもんね、それぐらい当然だよね」

今までに直樹兄さんは男の人だと頭ではわかってはいても、実感することは今回がはじめてだった。

幼い頃から家族ぐるみで付き合いのあった直樹兄さんとはもう十五年以上の付き合いになる。
一人っ子の私は、直樹兄さんを本当の兄のように慕い、纏わりついては兄さんを困らせていたらしい。なにせ、男の子だとか女の子だとかそんな区別がつかない頃、彼のやること全てを真似したがって周囲をはらはらさせていたそうだ。あんまりその頃の記憶はないんだけど。

「あんなにお転婆だった美夏も、こんなに女の子らしくなったぐらいだし、これぐらいの変化はありでしょう、俺だって」

そういってドカッと隣に座り、私の頭を引き寄せる。
それは、割とよくやるコミュニケーションの一つに過ぎないはずなのに、彼の手の大きさが意識され落ち着かなくなる。
こんなに、彼の掌が大きいだなんて気が付かなかった。

「ん?どうしたの?調子悪い?」

いつもはうるさいぐらい喋りたおす私が、急に黙ってしまったので、こちらの顔を窺うように覗き込んでくる。
反射的に身を引いて、距離をとろうとする。けれども、ソファーの背もたれに阻まれうまくいかない。

「顔が赤いけど、熱でもある?」

少しだけ離れた距離を再び縮めるように彼の顔が近づいてくる。
言われなくても、顔が赤いことぐらいわかっている。だって、体温が上昇しているのがわかるから。
さっきまでなんともなかった兄さんと二人きりの空間を息苦しく感じる。
どうしてこんな気持ちになるのかわからない。
なおも固まったままの私に彼は意地悪そうな笑みを浮かべ、さらに距離を縮める。
兄さんの睫毛だとか、前髪の髪先だとか、普段これほど近い距離でみることなんてなかったのに、とそんなことを考えた瞬間。唇になにか暖かいものが触れる。
それが何かを認識する前に、兄さんを思い切り突き飛ばしてしまった。
咄嗟の出来事に無防備に床に打ち付けられた兄さんは、痛みに動きが止まっている。

「帰る!」

一言だけを残して、脱兎のごとく出口へと走る。
行き成り彼が何をしたかなんてわかりたくない。
昨日まで居心地の良かったこの部屋に圧迫感を感じる。


元に戻れないかもしれない。
足が竦みそうになるほどそれが恐ろしかった。





 一週間後、兄さんは素知らぬ顔で私の前に現れた。
あの出来事は、私の頭を金槌で殴りたおすぐらいの衝撃を与えてくれた。
誰よりも大好きで誰よりも信頼していた兄さん。
彼にとって私はただの“女”でしかなかったことが酷い混乱をもたらす。

いつから?
どうして?

色々な疑問が頭の中を駆け巡る。
優しかった“兄”の喪失と見たことも無い“男”の出現に戸惑いっぱなしの一週間。

なのに、どーして!

この人はこんな平気な顔をしてのこのことやって来られるのか。
しかものほほんと食事なんかにありついて。

「あ、おかえりー。高校生も忙しいねぇ」

高校から直接塾へ行けば、帰宅時間はこんなものになる。いつもならこのまま私も食卓につくのだけれど、今日はとてもそんな気になれない。
このところ食欲がなかったものに拍車をかけてしまった。

「こんばんは。疲れてるからもう寝るね」

出来るだけ兄さんと顔を合わせないように自室へと向う。
これ以上平気な顔の兄さんと顔を合わせていられない。
かばんを放り投げて、制服を着替える。今日はこのまま寝てしまうから、寝巻きをきてしまおう。そう考えて制服のリボンをはずそうとする。

「美夏?」

兄さんがドアをノックする。昔はそんなことせずにズカズカ入り込んでた気がする。そういえば、いつから彼はこんなことをするようになったんだろう。

「何?私疲れてるから寝たいんだけど」
「あーーーー、うん。ちょっとだけだから」

そう言って、許可もしていないのに強引に入り込んでくる。

「なんの用事?」

諦めてベッドの上に座る。兄さんは私の前に胡座をかいて座り込む。

「美夏、この間のことなんだけど」
「なんのこと?」
「いや、だから」

言い淀む彼の顔を観察する。
困惑、している。
わかっている、あれはきっと出来心やイタズラ心なんだと。まだまだ子どもの私があんなことぐらいで驚いてしまったから、謝りにきてくれたんだろうと。

「なんにもなかったから」

だから、なかったことにする。
それがお互いにとって一番いい手段。彼にとって私は仲の良い妹だろうし、私にとっては信頼の出来る兄である。それ以上でも以下でもない関係。それでいい、ううん、そうでなくてはだめ。

「なかったって」

それでも兄さんは責任を感じているのか尚も食い下がる。

「私がなかったって言ってるんだから、なかったの!!」

まっすぐに彼の目を見る。彼もこちらをまっすぐと見返す。繰り返し思い出しそうになる映像を頭の隅から追い払う。
忘れたい。大丈夫、彼にとってはたいした事がないこと、なのだろうから。



しばらくの沈黙の後、彼がすっとその身体を近づける。あの時と同じように咄嗟によけようとする。だけど、彼の動作の方が素早くて、簡単につかまってしまう。

「じゃあ、もう一回すれば、なかったことにできないよな」

意地悪い笑みまで浮かべる兄さんは、ずっと前から知っていた兄さんではない。小さく身震いする。
未知のものにつかまってしまった不安と、信頼してきたものが根底から崩れ去った不安がどんどん膨らんでいく。
小刻みに身を震わせる私を兄さんは優しく抱きしめてくれる。だけどいつかのような安心感を与えてはくれない。

「ごめん。って、ふざけすぎたな、俺も」

頭を撫でながらこんなことをおっしゃる。
途端に、不安や怯えと言ったものとは違う感情が湧きあがる。
兄さん、あなたいい大人だというのに、ふざけてあんなことしやがったんですか?
私の不穏な空気を察知したのか、兄さんが慌てて言い訳を開始する。

「いや、あれは冗談とかじゃないぞ。つい、っていうかうっかりっていうか、寝起きだったから自制心が緩かったというか」
「つい、で、うっかりであんなことする人間なわけね」
「違う違う!!美夏にだけだって」
「は??説得力ないんですけど」
「誰彼かまわずキスして回るような男じゃないって、俺」

ぶすっと黙り込んだ私に、必死になにか言い募っている兄さん。もう何がなんだかよくわからない。

「もう信用できない」
「信用しなくてもいいから、男としてみてくれないか?」

さらりと私にとってはとんでもないことを言い出す。

「見れないし」
「いや、見ろ」

命令形ですか。そうですか。

「直樹兄さんなんて嫌いです」
「俺は美夏のこと好き」

怯まずためらわずキッパリと言い切る兄さんは、私の気が緩んだすきにほっぺにちゅーしてるし。
慌てて頬を押さえる私をおもしろそうに眺めている。

「俺、美夏のこと諦めないし、今のところは執行猶予ってことで」
「は?」
「高校出たら手加減しないから」

そう言い放って出て行ってしまった。
後に取り残された私は、まさしく放心状態でその場にへたり込む。

なんて言った?
高校出たら?

明日になったら冗談でした、とか明後日になったら気が変わる、とかないよ、ね。
第三者によって、自分の未来のレールがあっさりひかれてしまったような錯覚に陥る。

いや、錯覚じゃないぞ。

こんなことで真剣に進路を考えるなんて阿呆みたいだけど。
家から通える学校を希望していた私は、進路変更の可能性を考え込む。
うちの親と仲の良い兄さんの目を欺くためには、こちらもかなりなスキルを必要とする。
こういったゲームは好きな方。人生がかかってなければね。

私が妹のままでいられるのは、あとどのくらいだろうか。