3 危険か冒険か【Risk】

 小早川ありがとう!

朝の爽やかな日が差し込むオフィスで、心の底からこんなことが思えるだなんて、人間一寸先はなんとやら、だと噛み締める。
好奇心を隠せない同僚達に囲まれて、後輩X君が心なしか頬を染めて嬉しそうにしている。
よく考えなくとも、あの場所にああやって立っていたのは、きっと俺だったんだよな、と、先月の子悪魔ちゃんとの会食を思い出す。

 子悪魔中村さんはそれはそれはかわいらしく、小鳥が啄ばむように食べながら、たいして飲んでもいないアルコールに酔っ払い、俺にしなだれかかってきた。食事の段階でこうだったものだから、俺の女の子大好き病はムクムクと大きくなって、もうこのままホテル行っちゃおうかな?というところまで気分が盛り上がっていた。ただちょっと、そのあざとく見上げる仕草だとか、端々に心のどこかにひっかかる表情やなにかが気にならないでもないけれど、酔って食べてしまえば同じだ、いや、少なくとも小早川の時のような衝撃は受けまい、と、俺にとっても鬼門の言葉を思い浮かべた。
途端に拡がる背中の痛み。
それが、噂の元小早川から背中に受けた平手打ちのせいだと気がつくのに、そう時間はかからなかった。
どうしてこんなところに、という俺の心は開けっぴろげに漏れていたらしく、ケラケラと笑いながらも、俺と子悪魔ちゃんは小早川が引き連れた酔っ払いグループにあっという間に吸収されていった。
こんなはずでは、と、お銚子を目の前にして呟いた時には、子悪魔ちゃんの姿はそこにはなく、やたらと酒の強い小早川一人が陽気な酔っ払いとして君臨している飲み屋の畳の上にちょこんと座っていた。
せっかくの女の子が、と、思う気持ちと、こうやって小早川と陽気に飲み交わしている方がよい、という気分がごちゃまぜになり、とりあえず乱れない程度に杯を重ねる。
次々と撃沈していった同僚達をそれぞれのタクシーに押し込み、すでに酔いが冷めた風な小早川と二人、なんとなく喫煙場所で煙草を吸う。

「悪かったな」
「いや…」

いつもの小早川とは違って、本当にちょっとだけすまなさそうに謝罪され、面食らう。
こいつはいつも尊大にふんぞり返っていないと調子が狂う。
だけど、そんなことより、本当に大してあの子を逃してしまった事は痛手になっていないらしい。
この年ですでに枯れてしまったのか?と問い質したいところだが、まあ、どちらかというとほっとしているといった方が近いのかもしれない。

「後輩には悪いことしたみたいだけどなぁ」
「後輩?」
「……、来たぞ」

それぞれ反対方向に住む俺たちは、当然タクシーも別々で、一服している間に、客まちのタクシーがやってきたようで、小早川がそれを顎で指し示す。

「お前先乗れよ」
「もう1本吸ってく」

そうやって取り出した銘柄も男臭い煙草をくわえ、素早く点火する。
何かに腑に落ちないまま俺はそのまま小早川に手を振り、タクシーに乗り込んだ。
あいつの吸った煙草のにおいだけがかすかに衣服に染み付いたようで、落ち着かない。
その気分はどうしてなのかを悶々と考えていたら、子悪魔ちゃんのことはすっかり忘れ去っていた。



 で、本日の後輩Xの爆弾発現につながるわけだ。
どうやら、あの時小早川が悪い事をしたと思っていた後輩は彼のことのようで、その彼がなんと、中村さんと婚約をしたと朗らかに報告してくれたのだ。
社内で一二を争うほどの有る意味人気のある彼女を射止めた男、ということで、からかい半分ヤッカミ半分同期の人間にもみくちゃにされている。
ああ、本当に良かったと、胸を撫で下ろしつつ、小早川はこのことを知っていたのか、と、軽く驚いてもいる。
何も知らなさそうに幸せそうな彼には誰も告げ口をしない事実。
それが、周囲の人間をなんとなく、喜んでいいのかわからない状態に陥らせており、後輩君と同様恐らく知らないあろう無邪気な同期たちを遠巻きに見守る雰囲気を醸し出している。
そう、子悪魔中村ちゃんは、わが社の出世頭営業部長と愛人関係にあり、なおかつ現在進行形である、という噂は、よほど世事に疎い人間でなければ知らないはずがないここだけの秘密。
さすがに、この年にして愛人にしたい、などという冠がつく女。
そういう俺も知らなかったうちの一人だったのだけれど、あの薄氷を踏むような飲み会の次の日に、小早川の部下からそっと耳打ちされた。
最初は疑って、次に納得した。
全くの別部署にもかかわらず、二人は接点が多すぎるし、そのことを不思議に思う連中も一人や二人ではない。どこかこびたような仕草は業務中でもいかんなく発揮されており、それが対営業部長になると露骨すぎたりもする。しかも、それを叱るどころか相好を崩すあたりなんざ、俺たちは関係しています、って、勘の良い女性陣じゃなくとも気がつくに決まっている。
現実に、ちらほらそういう声があがる中、この電撃発表だ。
驚かない方がどうかしている。
おそらく、専務の一人娘と結婚した営業部長が、慣れないオフィスラブに手を出したものの、どう処分していいのかわからず、中村さんを焚き付けたに違いない。入社して僅かで寿退社される方が会社としては損失が大きいものの、部長個人としては厄介払いが出来てちょうどよい、ということだろう。
おまけに愛人関係は社内の人間が見えないところで続行可能という、夢のようなプラン。
ばれた時が恐ろしいが、とりあえず問題の先送りができたというわけだ。
まあ、後輩X君には申し訳ないが、その立場が俺じゃなかったからどうでもいい。
うっかり地雷を踏んだ君が悪いんだ、と、とりあえず仕事に取り掛かる。
後で小早川でも誘って飲みに行くか、と考えたら、急に気分が浮上してきて、後輩達にまで「何かいいことでもあったんですか?」と、言われる始末。
だが、俺の浮かれきった気分も小早川の一言で一刀両断される。

「悪い、明日早いんだ」

そんな素っ気無い一言のもと、俺の誘いはあっけなく断られる。
生涯初めてといってもいい女性からの拒絶は、思った以上に俺にダメージを与え、俺はその週末はひきこもりよろしく、ほとんどベッドの上でうだうだすごすこととなってしまった。
これが、小早川の一言のせいだとは認めたくない気持ちをぐるぐると抱えながら。


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3.11.2008

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