07
洋行が秋絵のメールに気がついたのは、月曜日の就業時間が過ぎだ後だった。何気なく会社を出たところで電源をつけると、彼女からの着信が残っていたのだ。
亜紀子に番号は知られていないものの、なんとなく携帯に出る気分ではなく、一日中電源を落としたままだったのが災いした。しかし、言い訳ができるのならば、あのような状況で去っていった秋絵とも話すつもりにはなれなかったから仕方がなかったのだと、ため息をつく。
ディスプレイが知らせる秋絵からのメールに、一瞬頬を緩め、それを読むべくボタンを押す。
そこには、彼が想像もしていなかった言葉が、あまりにもそっけなく綴られていた。
"もう無理。さようなら"
思わず携帯電話を握り締め、床へ叩きつけようとする衝動を抑える。
咄嗟に、彼女を問い詰めたくて、急いで彼女に電話を繋げる。
幾度かの呼び出し音の後、彼女の声が聞こえた。まるでそれはどこか遠い国から聞こえてくるようで、洋行の焦燥感を一層煽り立てた。
「どういう意味だ?」
「そのまま」
何の前置きも無しに、行き成りきりつける。それほど、手から滑り落ちるような感覚に囚われている洋行は焦っているのだ。
「そのままって、おまえ、これだけじゃわかるわけないだろ」
「もう別れる、無理。それじゃだめなわけ?」
「だめなわけって、今さら」
「別に今さらもなにも、別にいいでしょ?それほどあっているわけじゃないんだし」
「会えないことが嫌だったのなら、言ってくれればよかったじゃないか」
「別に、そんなことが嫌なわけじゃないけど」
「じゃあ、なんだって言うんだ?」
「先月さ、友達が結婚したんだよね、洋行も知っている人」
「だから?というか、別に隠す事じゃないし、言ってくれても」
「言ってどうするわけ?友達が結婚したから私達もってあなたにプレッシャーかけろってこと?」
「そういうわけじゃ」
「あのさーー、結構あなたに隠れて友達の結婚式ってやつに行ってたんだよね」
彼女の言葉に、不自然なほどに秋絵から結婚の二文字が出なかったことに気がついた。
洋行が適齢期だということは、彼女はそれ以上に適齢期だということで、洋行が披露宴に誘われるということは、彼女だとてその交友範囲で誘われていてもいいということだ。そんなことにも気がつかないで、今まで結婚をせかさないのんびりした女、という烙印を秋絵に押し付けて知らん振りを決め込んでいたのだ。
「まあ、それは、そこまで隠し事をする私が悪いんだけどね、今思えばもっとあっけらかんと披露宴なんだって言えばよかったと思う」
「だったら」
「ごめん、もう無理。本当に無理」
「無理って」
「よく考えたら、言えないことが普通になっていて、もうこれからどうやってあなたに伝えたらいいのかわからない」
「もう一度最初からやり直せばいいだろう」
「んーー、今さら?もう30だし」
「だから、結婚しようって」
「どうして急にそんな風に思ったわけ?今までそんなこと一言も言ったことないじゃない」
原因の一つに亜紀子との関係があるせいか、洋行の言い訳は歯切れが悪い。長く付き合っていた彼女、秋絵がいるにも関わらず、途中で割り込んできた無神経な女に少なからずも心をひかれていたなどとは、口が避けても言えない。しかも、その罪悪感を覆い隠そうとするため、半ばやけになって秋絵にプロポーズしただなんて。何も知らないはずの秋絵に全てを見透かされているような恐怖感を抱く。
「で、どうしてプロポーズしようだなんて思ったの?」
これは、最後のチャンスなのかもしれない。
そう思ったものの、先ほどから洋行の唇は、ぴたりと閉じられたまま動いてはくれない。純粋な思いから、彼女にプロポーズをしたわけではない、という罪悪感と、その後に起こった出来事が洋行の心に重くのしかかる。
どの口で、彼女に愛しているなどと言えるものか。
ただ一言、好きだから、と、軽くかわせばよかったにもかかわらず、洋行はそれをするには真面目すぎた。真面目すぎるがゆえに、少しでも心を惑わせた自分自身が許せなくてあんなことをしでかしてしまったのだから。
「……。わかった。もう終わり」
「ああ」
強がって、なぜだか最後の言葉だけは発することが出来た洋行と、どこかすっきりしたような秋絵が最後の言葉を交わす。
「さよなら」
「さよなら」
本当に、これが最後の会話になってしまうのだと、あっけなく切れた通話に呆然とする。
どうして、ただ好きなのだと伝えられなかったのかと。
額に手を当てながら物言わぬ携帯を見つめる。
「好き、なんだ」
洋行の言葉は誰にも聞かれることなく、人影がまばらなオフィス街へと吸い込まれていった。
もう二度と、その言葉を彼女に言う機会は巡ってこないだろうと、後悔をしながら。
「……」
「何?」
「……いや」
洋行は一年ぶりに谷野に呼び出され、ビール会社が経営している室内のビアガーデンに足を運んだ。洋行が到着した頃には、すでに難しい顔をした谷野が座っており。目の前に置かれたビールのグラスに水滴がつくままに放置されていた。
当然、洋行もお目当てのビールを頼み、軽くいくつかのつまみを注文する。その間も谷野は黙って水滴を凝視したままだ。
何度目かのわけのわからないやりとりのあと、ようやく重い口を開いたのか、谷野が本題を切り出したのは、二人で黙々と食したから揚げの皿が空になる頃だった。
「あのさ、秋絵ちゃん…、って元気?」
「さあ?元気なんじゃねーの?」
久しぶりに聞くその名に胸が痛むのを感じた。ただ、その痛みも、当初のような激しい痛みではなく、どこか懐かしさを伴うような感傷的な何かが含まれているようだ。
「じゃあさ、えっと、おまえらって別れた?とか」
「そうだけど?」
洋行は、あれ以来同級生の集まりには参加していない、秋絵のことを知られていてばつが悪いせいもあるが、何よりも再び土井亜紀子と顔を会わせることを避けたかったせいだ。彼女に会わないようにするのは、至極簡単なことだった。ただ引っ越して通勤ルートを変えてしまえばよいだけだ、たったそれだけで彼女との偶然の出会いはまるでなくなった。おまけに、最後まで自分は亜紀子に連絡先を教えていなかったことが幸いした。あんなにも短い期間で焦がれるように惹かれた亜紀子のことを、今ではまるで思い出す事もない。正直なところ、どんな顔だったかすら思い出せないでいる。同時に失った秋絵の存在が大きすぎて、そんな余裕がなかったせいなのかもしれない。
今思えば、随分酷い事をした。
全てが終わり、時間が癒していった現在の洋行にはそう思えるだけの余裕がある。だが、もう一度彼女に顔を合わせるだけの度胸が無い。
「そっか、そうなのか」
安心したかのように、谷野は中途半端に残ったビールを飲み干し、代わりのビールをオーダーしている。
「で、何?」
「え?いやいやいや」
昔から、谷野は嘘をつく事が下手だ。現に、今でも目が泳いでいる。
「で?そんなことを聞くためにわざわざ呼び出したわけじゃないだろ?」
「ええ?いやいや、集まりに出てくれなくなったしさ、おまえ、なんか落ち込んでいるのかなぁ、なんてさ」
泳ぎっぱなしの視線は、新しいグラスに注がれ、無駄なはしゃぎ方をしてそれをあおぐ。
「で?」
「え?あーーーー、えへ?」
カワイイポーズを谷野がとっても、それは滑稽なだけだ。素早く蹴り上げて、続きを促す。
「秋絵ちゃんが結婚するって聞いて、さ」
洋行は、その言葉を聞いて、二人でやり取りした最後の会話を思い出していた。
素直に、好きだと言えなかった自分。
「そっか…」
三分の一ほど残っていたビールを流し込み、洋行も新しくオーダーをする。
「飲もうか」
「ああ」
新しく届いたグラスで、洋行は谷野と乾杯をする。
「ま、いつかはいいことあるさ」
「そうだな、いつかはな」
谷野と飲んだビールは、久しぶりに本当のビールの味がした。
こうやって心配をしてくれる友達がいるだけ、自分も捨てたものじゃないと、そう心の中で思いながら。
秋絵と過ごさない季節が一巡りする。
もう、君がいなくても、僕は大丈夫だと、どこかで幸せになっているはずの彼女に向って呟く。
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