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蜜月と言う言葉はこういうことを指すのかもしれない。
もちろん今までに好きな人がいなかったわけじゃない。もてない男まっしぐらの自分としては片思いだったのが悲しいところだけれど。
その時の思いは今も変わることはないけれど、あまりにも手が遠い存在だった千津さんの近くにいられるだなんて、実感が湧かなくて、でも与えられた柔らかさは本能を刺激して、これ以上ないぐらい舞い上がってしまっている。
年上なのだから落ち着かなくてはと言い聞かせてはみるものの、彼女を視界に捕らえてしまうとテンションが上がったきり下がってこない自分がいて、情けない。
今までより近づいた距離、時々絡む指先。間に流れる空気さえ甘くなったようで、でも家庭教師としてはもっと引き締めなくてはいけない、という思いとせめぎ合っている。
千津さんはやはり急に触れると、一瞬身体を強ばらせる。
最初の時の大胆さは影を潜め、あの時は余裕がありそうに感じた彼女も、やや興奮していたのかもしれない。
だから、できるだけそっと、野良猫を手懐けるような感覚で彼女に触れる。
千津さんが触れてきた相手を認識でき、意識できるまでゆっくりと。それはまるで何かの儀式のようで、神聖な気分にまでなってしまう。
今のところ邪な思いはチラリと頭を掠める程度に留めている。それでもゼロにならないのが悲しい性だともいえるけれど。
「先生…、あの」
「何?」
小さなテーブルに向かい合わせで座りあう千津さんに対して、なんとなくどこかが触れていたくてテーブルの上に置かれた左手をそっと握りしめる。ただそれだけなのに気持ちが暖かくなる。
何かを言いかけた彼女の言葉が形になるまでゆっくりと待つ。
元々頭の回転の速い彼女がこんなふうに口篭もることは少ない。それだけ言いづらいのか重要なことなのか、どのみち千津さんの言葉一つ一つはどんなことでも俺にとって見れば重要なことにはかわりない。だから、せかさずにじっくりと彼女の様子を窺う。
「進学、しようと思って」
それだけ言って、そのまま俯いてしまった。
なんとなくその仕草にこちらまで照れてしまう。
別になんのやましいこともない、家庭教師の業務範囲内の報告だというのに、プロポーズをされた男のように面食らってしまった。
「栄養学的なものをやりたいなぁ、なんて思って」
「千津さんは料理が好きだからね、ちょうどいいかもしれない。俺みたいに大雑把に理系で後は偏差値で学部を選ぶよりいいと思うよ」
「うーーん、私としても数学と一生付き合うのは勘弁して欲しいというか…」
「俺は英語から逃げたかったんだけど、結局理系でもなにより必要なのは語学力だったっていう間抜な状態に陥ってる…。千津さんは語学力もあるし俺よりずっとましな学生生活がおくれると思う」
「そう、かな?先生にそう言われると本当にそうみたいに思えてくる」
そう言いながらふんわりと笑う彼女が本当に本当にかわいくて、思わず握り締めた右手に力が篭る。間に遮る机さえなければそのままこちら側へと引き寄せてしまいたいぐらいに。
お互い見つめあった状態で、照れくさいけれど嬉しくて、たぶんこれ異常ないぐらい顔はにやけていたと思う。
だけど、そんな蜜月がずっと続くはずもない、その綻びは突然やってくる。
ノックもなにもせず開かれた扉にびくりと彼女が振り返る。
扉に背を向けていた彼女と違って、俺の方は扉の真正面に位置している。だから、彼女より先にそれと対面することになってしまった。
「杉野修治、その手はなんだ?」
神経質そうな顔をより一層尖らせて、眉間に深い皺を刻んだ彼女の兄は、開口一番底冷えのする声で切り付けてきた。
慌てて手を離そうとするも、彼女はぎゅっとこちらの手を握ったまま離そうとはしない。
「ノックぐらいしたらどう?」
「突然開けたらなにか不味いような事でもしてるのか?この部屋で」
「さあ、でも兄さんには関係のないことじゃない?」
邪推された、とでも彼女は判断したのか、その言葉にはふんだんに棘が含まれている。
深い皺をよりいっそう深くさせ、彼女の兄はこちらに射るような視線を寄越してくる。
「先生を威嚇しないでよ、別にやましいことをしているわけでもないし」
「それがやましくないとしたら何がやましいというんだ。普通家庭教師は教え子の手は握らないだろうが」
「だったら何?普通ってなんなわけ?」
こんなに攻撃的な彼女は初めてなのか苦虫を噛み潰したような顔をして、彼はゆっくりとため息をついた。
「杉野君に聞くけど、俺は大丈夫か?って君に聞いたよな?」
「はい…」
ゆっくりと彼が言った言葉を思い出す。
彼女の秘密をはじめて彼が聞かされた時にしっかりと釘をさされていたのだ、俺は。そんなことは今このときまですっかり頭の片隅にも残っていなかった。
だけど、彼がそれを心配するのは当然のことで、まして彼女のような境遇ならばなおのことだ。
「なにそれ、この先生にそんな失礼なことを聞いたの?」
ますます憤慨したのか彼女は少しだけ唇を尖らせながら、抗議の声をあげる。そんな表情もかわいい、とこんな時にこんな状態で思えてしまう自分は末期症状だと思う。
「あたりまえだろう。おまえは年頃の女で、杉野君は男なんだから」
「そうね、だったら恋愛関係になるのも問題ないんじゃないの?」
息を呑む音が聞こえる。
兄妹喧嘩ともいえる会話は、沈黙をもって終了した。
息苦しくなるような静けさの後、搾り出したような声で彼ははっきりと俺と彼女に告げた。
「話がある。下まで来い」
僅かに震えた彼女の手を強く握り返す。
どんなことがあってもこの手を離すことはないのだと、彼女に伝わるように。
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