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先生の様子がおかしい。
それほど長くこの人と接しているわけではないけれど、先生はいつでも穏やかで優しい雰囲気を纏っていた。
だけど、今日はそのどこかが綻びているようで、ときたまギスギスとした空気が漏れ出している。
私がその度に驚いた顔をするせいか、慌てて笑顔を作り出し、なんでもないと言った風に授業を続けている。
「どうしたの」
パタンと閉じた教科書に不可解な表情を見せる。
それはそうだろう、まだ始まって一時間もたっていない。こんな風に途中であからさまにやめようとしたことなんて一度もないのだから。
だけど、一度気になった違和感は消せなくて、とりあえず話がしたいと思ったのだ。
「先生の方こそどうしたんですか?」
下手な小細工は出来ないし、嫌いだから単刀直入に聞き出す。
先生は良くわからないといった顔をして首を傾げている。
「なんか、イライラしているみたい」
ボキャブラリーの無い私が表現をするのなら、これしかないのだけれど、本当はもっと複雑かもしれない。高校生の私よりもきっと先生の世界には色々あって、本当は私なんかが立ち入ってはいけないものだと思う。
でも、あの時この人が聞き出してくれたように、私が先生の心を少しでも軽くする事ができたならと、そう思わずにはいられないのだ。
どこまでも優しいこの人のために。
「別に…」
「別にって、そんな顔してない」
先生にしては珍しい物言いに、やはり何かがあったのだと確信をする。
それが例え私にはわからない話だとしても、私は今彼の口から聞きたいのだ。
どうしてこんな欲求がわいてくるのかがわからない。
わたしはただの教え子なのに、彼の全てが知りたいだなんて、思ったこともなかったのに。
今、痛切にそう思ってしまうのはどうしてだろう。
「…言っても千津さんにはわからないから」
一番この人の口から聞きたくない言葉がスルリと耳に飛び込んでくる。
瞬間、体が硬直して何も考えられなくなる。
幾度となく浴びせられた言葉だというのに、この人に言われるとこれほどまでに心が痛くなるだなんて。
どうしようもなくて何も言えなくて、ただただその場に吸いつけられたように固まることしかできない。
「ごめん……八つ当たりだ、俺って最低」
いつのまにか私の隣に来ていた先生は、そっと左手を私の頬に触れ、躊躇いがちに私の頬へと顔を近づける。
触れたかどうかもわからないほど柔らかいそれは、僅かな後口付けをされたのだと気がついた。
「泣いている」
再び親指で軽く私の頬を拭う。
先生の言葉で、私が泣いていたことに気がつく。
あまりの出来事に何も考えられなくなっていたから。
「どうして…」
どうしてそんなに優しくしてくれるのかがわからない。
勝手に彼のプライベートを聞きだそうとして、余計な事を言ったのは私の方だ。
もっと強く切り捨てられても仕方がないのに、彼は私を傷つけたと言っては謝ってくれるのだ。
「好きだから」
夏休みに先生から聞いた言葉が再び胸に染み込んでくる。
暖かくて、優しくて。
悲しくないのに泣き出したくなりそうで。
縋りつきたくないのだと、そう思っていたのに。
気がつけば私は先生の胸の中に納められていた。
自分とは違う体温、私と同じぐらい早く打つ鼓動に、ああ、先生も緊張しているのだと気がつき、ふっと体の力が抜けていく。
あの人のことがあって以来、人に触れられることをやや躊躇っていたというのに、こんなにもこの人の腕の中は安心するのだと気がついてしまった。
頼りたくない。
でも、この人の中にもっと深く溶け込みたい。
矛盾した思いは私のなかでせめぎあうものの、今はただこの心地よさに酔ってしまいそうになる。
「好きだから、こうやって触れたくなる」
吐息のような言葉に、さらに酔わされる。
「千津さんが誰でも、やっぱり俺は千津さんが好きだ」
涙が、止まらない。
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