06
先生との時間はとても穏やかに過ぎていった。
杉野先生に言われるままに宿題をこなし、一年生の教科書をやり直す。
一度崩れてしまったお城は修復するのが難しいけれど、いっそのこと土台からやり直している今は、僅かずつでも前へと進んでいっているような気がする。
今までに味わったことのない穏やかな空間が作られている。
この人は、本当に素直で純粋なのだと、初めて父に感謝する。
「だいぶ良くなってきたね」
「そうですか?だとしたら先生のおかげです」
本心で思う。
たぶん私一人ではとっくに音を上げていただろう。
「でも、こんなにできるのにどうして1学期からつまずいたの?」
キーワードが放たれる。
彼にとってみれば、純粋すぎるほどの好奇心だろう。
今あがいている努力を入学と同時にすれば、こんなにも必死になって勉強することはないのだから。
扉が開けられる。
必死になって閉じ込めようとしても、気の良さそうな先生の顔を見ていると、別の感情が大きくなってくるのがわかる。
自虐的な八つ当たり。
この笑顔を切り裂いてしまいたくなる。
純粋な世界で生きてきたこの人を傷つけたくなる。
「簡単よ。あなたの先輩にレイプされたから」
時計の針が授業の終わりを告げる。
何を言われたのかわからないままの先生にありったけの笑顔を向ける。
パタンと教科書の閉じる音だけが聞こえる。
私の言葉を現実として処理できていない先生は、口を開けたまま固まっている。
彼らしい反応で自分の中の加虐的な部分が満足しているのがわかる。
「ごはん食べますか?」
あまりにもあっけなく、自分のことのように傷付く彼をみて、僅かに後悔をする。
彼は家族でも友人でもない。ましてあの連中でもないのに。
だけど、真っ白なキャンパスにでたらめに絵の具を塗りたくるように、綺麗な事しか知らなさそうなこの人に汚い部分を見せ付けたかったのだ。
子どもじみた残虐性。
小さい頃綺麗な蝶々の羽を毟ってしまった時の感覚に似ている。
「それ、先生には・・・」
「何の話?」
ようやく聞こえてきた先生の声を、何事もなかったかのように無視をする。
これ以上曝け出せば、私の中のどす黒い何かに触れてしまう。
そうすれば優しいこの人はどうなるのだろう。受け止めきれず我が事のように悩んでしまうかもしれない。今更だけど、彼の優しさにいつのまにか癒されていた自分を思い出す。
彼が、零れ落ちた言葉をどう理解したのかはわからない。
だけど、彼はそれきり、その話題には触れることはなかった。
ぎくしゃくとした夕食を終え、私はこの家に取り残される。
話してしまえばあっけなく、そのこと自体は私をたいして傷つけてはいないのだと気がつく。
どこか他人事のように思っている。
ベッドに自らの体が沈む感覚を味わう。一瞬だけあの日以来感じている浮遊感にも似た感触を与えてくれる。
オフホワイトの天井に照明器具。
暗闇に覆われた部屋で、なおも電気一つ点けずに静かに身体を横たえている。
目を閉じれば、思い出してしまう。
だけど、巧妙に隠蔽された真実はさらに奥へと沈み込んでいく。
たぶん、言えはしない。