あんなにも焦がれていた自由な生活も手に入れてしまえばかえって不自由なものになるのかもしれない。
友人もこれといって多くなく、特に趣味や遊びに時間を費やしているわけではない私は、急に出来てしまった時間を持て余している。
結局、いつも通りに起床し仕事をし、まっすぐと家へと帰る生活を続けている。
制限があろうとなかろうと個人の資質次第で生活はさほど大きくは変化しないらしい。
そう考えると、姉の行動はただやりたいようにやっていただけなのかもしれない。
親への反抗心だとか世間体への反発だとか、そういったものは誰であれ多少持ち合わせているのだろうが、ああいった発露の仕方をするというのは、やはり本人の資質によるところなのだろう。
自分のやりたいことをやりたいようにする。
それが彼女の心情なのかもしれない。
うらやましいと思う反面、それに伴う周囲の反応を考えると、そこまで踏み込めない自分自身に嫌気が差す。
何をしたかったわけではない。ただ逃げ出しただけ。
限界だと思って手放した生活にもう戻る気はない。
でも、後もう少しだけ違う方向で努力してみたらよかったのに。そんなことを思う。
フルフルと頭を振って、ユニットバスのバスタブからあがる。
誰にもかまわれずにお風呂に入れる瞬間だけは、ことさら強く今の生活に感謝している。
「相澤さん、今日暇?」
同期の女性に個人的な事ではじめて声を掛けられ、急な出来事にその場で固まってしまう。
「そんな驚いた顔しないでよー」
私と異なる少し高い声の彼女は同じ部署にいるのに、仕事以外の会話を交わした記憶がない。別に彼女が嫌いだとか、苦手だとか、そんな積極的な感情を持ち合わせているわけではなく、ただ単に職場でプライベートな関わりをもつことが面倒だっただけだ。
「えっと・・、暇だけど・・・残業?」
アシスタント的な仕事をこなしている彼女が、私に仕事を押し付けることはないとは思うけれど、やはり他に思い当たる節がないため、思わずこんな質問をしてしまう。
「違うって。おいしいお店を見つけたからよかったらどうかなって思って」
「おいしい・・店?」
「そうそう、あ、相澤さんって好き嫌いある?」
「へ?ない・・けど」
「そうだよね、相澤さんってきちんとしてるから、好き嫌いとかなさそうだし」
それからひとしきり彼女の嫌いな野菜の話を捲くし立てられ、呆気にとられた私は、
「じゃあ、7時にエレベーター前でまってるから」
と、言われた一言に咄嗟に頷いてしまった。
よく、わからない現象が起きた気がする。
確かに今の時期は全体的に仕事が少ないため、定刻通りに返ることは十分可能だし、仕事帰りに会社に人たちとどこかへ行く、ということも別段不思議な出来事ではない。
だけど、誰とも付き合わず、忘年会と新年会のみ、しかも1次会で抜ける。といった態度をとりつづけていた私に、こんな出来事が起こるはずもなく。
狐につままれたような気分で、退社時間までを過ごす。こんな上の空の状態で仕事をしたことは初めてで、こんな気分でもそれなりにこなしてしまえる事に感心する。
「あ、相澤さーーん」
春らしいスプリングコートを身に纏った彼女が軽やかな声をあげる。彼女の周りにだけピンクの花が咲き乱れていそうだ。
はやくはやく、と袖を引っ張られながら連れて行かれる。こんな風に、同性といえども人と身近にいる機会が最近全くなかったことに気がつく。
スパイシーな香りを漂わせながら、数種類のカレーらしきものが並べられていく。彼女が連れてきてくれる店がまさかエスニック料理だなんて予想もしていなかった。なんかもっとかわいらしい雰囲気のお店が似合うと思っていたのに。
「色々な国の料理を食べるのが好きなんですよ」
こちらを眺めながらスプーンで料理を口に運んでいる。
「おいしい・・・」
彼女のお勧めを言われるままに口にした私は素直に感想を述べる。
「でしょ!!やっぱりね、相澤さんならわかってくれると思ったんだ」
照れたような笑顔で答える彼女、たわいもない会話。
こんなにも食事がおいしいと思ったことは久しぶりかもしれない。
「雰囲気変わったよね、美緒ちゃん」
いつのまにか呼び名が下の名前にシフトているのにも驚いたけど、彼女の言っている内容にはさらに驚かされる。
「変わった??私が?」
生活態度も何もかもそれほど変化したとは思えないのだけれど。
「そうそう、なんていうの?明るくなったっていうのとも違うし・・・・」
軽めのお酒を飲みながらそれが癖なのか、軽くウェーブがかった髪を指に巻きつけながら考え込んでいる。
「うーーーん、柔らかくなった?っていうのかな。近づきやすくなったのね、とっても」
「近づきやすい?」
「うん」
ということは今までは近づきにくかったということ?
声には出さなかったけれども、表情には如実に表れていたのか、慌てて弁解が入る。
「や、だって美緒ちゃんって、すっごい真面目じゃない。仕事熱心だし」
「真面目・・・・なつもりはなかったんだけど・・・」
小さい頃から繰り返されてきた言葉を反芻する。
そうしてその言葉の裏に隠されている意味も脳裏に掠める。
「変な意味はないよ?ちゃんと仕事してるって意味だからさ!!!」
私の心の奥深い部分まで見透かされているかのように、彼女がフォローを入れる。
周囲が私に求める“私”を演じていただけ。優等生で勉強ができるはずの私はそれ以外の“何か”になることを極端に恐れていた。成績が落ちたら、校則を破ったら、私は私の価値を失ってしまう。長い間そんなくだらない幻影に囚われていた。いい子だから私は声を掛けてもらえる。ずっとそんな風に思っていた。条件付の愛情。
そんなものは自分自身が作ってしまったただの言い訳にすぎないのだと気が付いたのは社会に出てからなのかもしれない。
気が付けば、それ以外の部分で評価をしてくれる人間がたくさん傍にいてくれたというのに、私はその人たちの愛情すら疑っていたことに愕然とする。
「美緒ちゃん・・・大丈夫?」
飲み物を持つ手を止め、たぶん一点を見つめていたであろう私に声が掛けられる。
「ごめんなさい、ちょっとぼうっとしてしまって」
「こっちこそごめんね、なんか私ばっかり一方的にしゃべっちゃって」
どこまでも柔らかな印象を与える笑顔で彼女が答える。
「いえ・・・、話を聞くのは好きだから」
思考を一端停止して、彼女の話に集中する。
女同士の気取らない話は、果てしなく続いていき、初めて食事に行ったというのに、井戸端会議の様相を呈した食事会は次の舞台へと移っていった。
間接照明が暖かい雰囲気を醸し出している店で、あまり飲めないお酒を片手に彼女と話しつづけている。
もっとも一方的に聞いている方が多いのだが、それでも今までにないぐらいたくさん話していると思う。話すということは自分の中を整理する効果があるのか、今までわからなかった自分の側面をあらわにしていく。それは心地の良いものばかりではないけれど、今の自分自身に必要な儀式なのだと受け入れる。
次の日、鏡の中でみた自分の顔は、いつもとかわらず、でも少しだけ棘がとれたような表情をしていた。
姉のことを羨んでいた私。だけど、心のどこかで優越感に浸っていた。血のつながった姉だからこそ持ちうる複雑な感情。
自分以外には無頓着だった私が唯一こだわりをもった人物。今思えば、単純に多紀本人に視線がいっていたわけではなく、姉を好きな多紀に執着していたのかもしれない。
家を出て、一人になってみて初めて、私は彼にそれほど思いを残してはいないのだと思い知らされた。そう考えると、私は初恋というものすらきちんとしていないのかもしれない。
ただ、相変わらず雑踏の中誰かの姿を探してしまう。追い求めている姿は姉なのか多紀なのかよくわからないけど。
今更ながらに、取り残してきた姉のことを考える。きっと今ごろ息苦しくなって、飛び出しているに違いない。私と異なり、そういった決断を下すのは驚くほど早い人だから。
変わっていく自分、変わっていく関係。このままでいいはずはない、けれど今はまだ立ち竦んで動けない。
一人でいる時間が良い影響を与えてくれるのならば、しばらくはまだこのままでいたい。
空の向こうに飛び立ったであろう姉のことを考える。
それでもまだ、私は混沌の中。