「学習能力がないのか?和奈」
「…」
たどり着いたのは数学準備室。あいかわらずの先生が出迎える。いったい私はどうしてこんなとこまで逃げ込んできたのか。
「サボリだろ。まあいい、コーヒーでも入れてやる」
椅子に促されて言われるままに座り込む。
コーヒーをいれながら話し掛ける。
「最近あいつと一緒にいないな」
「少し距離をおくことにしたんです」
「ふん、あいつも余裕だな」
熱いコーヒーを飲みながら先ほどの光景を思い出す。
心臓が跳ねる。胸を切りつけられたような痛みが走る。
わからない。
どうしてそんな思いに捕らわれるのか。
目の前の男性を見る。相変わらず不敵な笑みをたたえているこの人は熱のこもった視線を送ってくる。
以前はそんな態度に戸惑いもしたし、あせりもしたけれど、今は動じなくなった。
「自覚したか、少しは」
「何を?」
ため息をつきながら私の身体を抱き寄せる。
「今この場で襲われるとは思わないのか?」
「それはさすがにしないでしょ、先生」
「わからんぞ、俺も男だから」
わけもわからないうちに膝の上に乗っていた私はじっと彼を見つめる。
冗談とも本気とも取れない表情。
端正な横顔だけれども、何かが違う。
以前の祐君に感じていたような安心感も、最近の祐君に感じていたような気持ちも感じない。
試しに腕を首の後ろに回して抱きついてみる。
「挑発する気か」
少しだけ目を細めて私を見据える。
「ごめんなさい…。あなたじゃない」
抱きしめていた腕を放し、彼の視線を受け止めて答える。
「私がこうしたいのは先生じゃない」
そう、きっとこうして欲しいのも先生じゃない。
「分かっている、そんなことは」
私の腰に手を回しきつく抱きしめる。こうされるのは確かに嫌じゃない。だけど何も感じない。
少し震える肩で強く抱きしめられ戸惑っていると、ノックの音が聞こえた。
先生がひるんだすきに、膝の上から逃げ出す。
私が準備室を出ようとしたのと同時に一人の女性が入ってきた。
「お久しぶり、雄一郎さん」
鉄面皮の先生を名前で呼ぶその人はとてもおしとやかな大人の女性で、私を見てひどく驚いていた。
背後にいるはずの先生は、なぜだか無言。でも、不穏なオーラが漂ってくるのが分かる。少し気になるけれども、
彼のテリトリーにこれ以上入り込んではいけない気がする。そのまま振り返りもせず重苦しい雰囲気の準備室を後にした。
ずっと話していない、教室にもいけない。どうして自分がここまでウジウジしているのか理解できない。
幼馴染なんだから堂々と会いに行けばいいのに。
そんな停滞中の私に誰だかがこっそりと耳打ちしてくれた。
『高柳君ってマネージャーと付き合ってるんですって?』
知らない。そんなこと聞いていない。
『単なる幼馴染だったんなら、今までみたいにベタベタしないでよね』
どちらも美紀ちゃんがいないときに聞かされた言葉。
昨日の祐君と知らない女生徒を思い出す。
どうしよう。
祐君が他の人と付き合う?
私のことを忘れて?
違う、もともとただの幼馴染じゃない。
何を自惚れているの?
相反する気持ちがせめぎあう。どす黒い感情を持て余す。
頭が混乱する。
明らかに顔色の悪い私を美紀は心配してくれている。でもこんなこと相談できない。
これ以上ここにいることができなくって、逃げ出すように早退してしまった。
家に帰るのも嫌で、だからといって行くところもない私は、家の近くにある公園のベンチに腰掛けている。
公園では子どもが楽しそうにはしゃいでいる。
懐かしい・・。ふと昔の映像が頭をよぎる。砂場で遊んでいる男の子と女の子を見ながら、
あんなに小さいうちから一緒だったんだよね、と感慨にふけってしまう。
彼の一番そばにいるのは私で、私の一番近くにいるのは彼だったのに。
どこで間違ってしまったの?ううん、今のこの状態が正しいのかもしれない。
彼にとって、私はただの幼馴染ということなんだろうから。
自然と涙が出てくる。祐君への思いを少なからず自覚した私は、
だからといって劇的に関係が変化するわけじゃないことも分かっている。
周囲の言葉が本当なら彼には彼女がいるわけで、そこには私が入り込む余地はないのかもしれない。
ただの幼馴染でもいいから側にいたいという気持ちと、それだけではイヤだというわがままな気持ちが渦巻いている。
前みたいに素直にそばにいることができたなら、そんな無理なことを願ってしまった。
連日の睡眠不足と、栄養不足のためあっけなく倒れてしまった。もともと身体が丈夫な方ではないのに、無理をしすぎてしまった。
目が覚めると、そこは保健室のベッドの上だった。
横には祐君がいる。
あわてて起きようとする私を制し、抱きしめる。
心拍数が上がる。全身が心臓みたいにドクドク波打っている。
どうかこの音が祐君に聞こえませんように。
「どうしてここまで無茶をする」
責めるように、でも弱弱しい声で聞いてくる祐君。今まで聞いたことがないぐらい動揺しているみたい。
「無茶って、ちょっと貧血がでただけで」
睡眠不足もご飯を食べていないことも隠して話すけど、
「食べてないし、眠ってもいないだろ?ろくに」
あっさり見破られている。
ずっと祐君の胸に押し当てられている格好なので表情が読めない。不安になる。
こんなことぐらいで倒れてしまう私に呆れているんじゃないかって。
「ごめん、なさい」
今は謝ることしかできない。
「謝って欲しいわけじゃない、どうして僕を頼ってくれない」
「だって」
「そりゃあ、和奈が言い出したことだよ?距離を置くって。でもこんなになるまでがまんしなくってもいいんだ」
抱きしめている腕に力がこもる。
「和奈。和奈が大好きだよ」
繰り返し囁かれたことがある言葉。でもその意味まで深く考えたことがなくって。
きっとこれは妹や幼馴染に対して言うセリフ。祐君は優しいから病弱な私を放って置けないだけ。
無邪気にそばにいたけれど、これからはいちゃいけない。
彼が望むような私ではいられない。そうはっきり自覚してしまったから。
心が自覚するより先に体がまいってしまったところが私らしい。
「祐君、ありがとう」
今だけは私の祐君でいて欲しい。
いつのまにか泣き出してしまった私の頭を優しく撫でる。
勘違いしそうになる、この人の優しさに。
だけどこれは他の誰かのもの。
私が独占していてはいけない。