酷い事をして、自分の中で何かが変わって、でもその扉を開けると拍子抜けするほど、何も変わっていなかった。
理由を問い質そうとする母親を振り切って、適当なイイワケを当り散らしながら学校へとやってきた。当然、そんなものでは納得するはずもないけれど、とりあえず学校だけは出席していた何も問題のない子どもであるはずの俺が、ようやく学校へ行った事に安心はしている、と思う。俺の方は、なんとか学校の門をくぐることは出来たものの、どれだけダッシュで引き返そうと思ったのかわからない。こうやってビクビク登校している間に、高柳先輩や田中先輩、鈴木先生や秋山先輩に出会ってしまうかもしれない。なにより、偶然和奈さんの視界に自分の姿が入ってしまうことが恐い。いや、自分の姿を見て、怯えたり恐がったりする和奈さんの顔を見たくないというのが正直なところだ。あれだけ酷い事をやっておいて、まだ心のどこかで、和奈さんが今まで通りに接してくれることを望んでいる。
俺はどれだけ阿呆な男なんだ。
「おはよーーー、風邪だって?」
すでに着席しているクラスメートが能天気に話し掛けてくる。今まではそれに面倒くさいながらも適当に答えていたのだろう。だけど、今日はその明るさが、自分自身の後ろめたさを炙り出すようで、少し突き刺さる。
「……、まあ」
「バカは風邪ひかないっていうのにな」
軽い冗談を言い合いながら皆が笑いあっている。引き攣りながらもその冗談にのっかる。調子は悪いながらも、なんとかそれは病み上がりのせいだと、思ってくれていると思う。
「そういえばさー、姫って」
ビクリと体が震えることを止められない。不意にその名を出された俺は、暗闇での彼女の顔がアタマの中に浮かび上がり、大声で叫びながら窓から飛び降りたくなる衝動にかられる。
元々彼女のファンだと自称している友人は、その話題に直ぐに食いつき、彼らは各々勝手なことを話している。
「お見舞い来た?」
「来るわけねーだろ」
「そっか、まあ、そうだよなぁ。おまえだし、風邪だし」
クラスメートのなかでもっとも彼女に近い位置にいると思われている自分は、時折こうやって探りを入れられる事が多い。なにより、放課後には偶然を装っていたとは言え、一緒に勉強っぽいことまでしていたのだから、多少そういう情報なんかを期待するのは仕方がない。
だけど、その名を、その姿を思い出すのは、今の俺にとってはとても辛い。
それが、自分自身の手で招いてしまった事でも。
「あのー」
片眉を上げて、仕事の手を休める姿は女生徒が見たらため息モノなのだろう。相変わらず無表情で丹精な顔がこちらを凝視する。
「見てのとおり俺しかいない」
「……そう、ですよね」
チラリと部屋の時計を眺め、筆記具を机の上へと静かに置く。
「いないことをわかっていて、なぜ来た?」
時計の針は6時をすでに回っている。高柳先輩の部活を待っていたとしても、こんな時間までココに残っているはずはないのだ。そんなことはわかっている。
「謝りたいと…」
「本人がいないのにか?」
「先生、俺」
「聞いている、和奈から」
言葉が続かなくて、無意識にズボンの布を強く握り締める。俺は何をしたくてここにきたのか。和奈さんがいないとわかっているこの部屋に。
「まあ、はいれ。あまり外に聞こえていい話じゃない」
あの出来事は、保健医と高柳先輩と数人の友人、そしてこの鈴木先生しか知らないのだろう。先生は、先生としての立場と、年上の男性としての立場として彼女をフォローしているに違いない。
「で、どうしたい」
単刀直入に切り出された俺は、何も言えないでいる。何時間か前まではきっと和奈さんが座っていただろう席へと座り、それでも今の俺は彼女の泣き顔しか思い出すことができないでいる。
「謝りたい、と」
「謝ってどうする?」
「どうするって…」
許してもらえるとは思っていない、たぶん、俺の存在そのものが今の彼女にとっては苦痛だとも思う。
「自己満足だな」
情容赦ない言葉が突き刺さる。
確かに、自己満足だと言われても仕方がない。
「許すのは難しくて、でも、許せない自分のことも嫌いになるかもしれないな、あいつは」
冷水を浴びせ掛けられたように、びくりと、背筋が震える。
そんなことまで考えてはいなかった。
俺が、謝罪を乞う、ということ事態が、彼女に何がしかの選択を強いる事になってしまうかもしれないなんて。
正直なところ、地面に土下座をしてでも謝りたい。それで、彼女に思いっきり罵倒されればいい、そう思っていた。
本当に、ただの自己満足だ。
派手に謝って見せて、結局のところ俺は許されたがっているだけだ。
「どっちにしろ、もう少し落ち着いてからにしろ。今はまだ混乱している」
「すみません、俺、楽になりたかったのかもしれない」
謝って、許してもらって、できればなかったことにしたくて、心のどこかでちょっとだけそんな事を思ってしまったずるい自分に気がついてしまった。
「安心しろ、俺はずっと許してなんかやらないから」
薄く笑った顔は、それでも、言葉とは裏腹に凄く優しくて、絶望的な言葉のはずなのに、すごく安心した。
俺は、ようやく自分のやったことを客観視できたのかもしれない。