夢から覚めた現実1

 朝起きれば何もなかったことになっているのかもしれない。そんな思いで目が覚めた。
だけど、起きてしまった事は現実で、どんなことをしたってなかったことになどなってくれない。そんなわかりきったことを思い知らされる。
高熱でうなされながらも初めに感じたのは恐怖。
一つ年下の顔見知りの少年が突然豹変したことへの戸惑い。
自分の中の何かが悪かったのではないかという後悔。
熱と精神的疲労でろくな思考回路じゃなかったけれど、繰り返し繰り返し訪れる夢はやっぱりろくでもないもので、そのたびに祐君や家族の気配に癒された。
祐君がいなければもっとこの状態が長引いたかもしれない。
ようやく起きることができるようになり、久しぶりに学校の制服に袖を通す。ひんやりとした感触に、まだ幾分熱が残っていることを自覚させられる。
それでも、いくら2年生とはいえこれ以上授業を休むわけにはいかないと、スカートを穿く。
控えめなノックの音が聞こえ、着替え終わった私が返事をすると、案の定祐君が私の部屋へと入ってきた。
心配そうに眉根を寄せ、無言で私の額に手を当てる。
祐君の掌が冷たくて気持ちがいい、だなんて言えば問答無用でベッドの上へと戻されそうで無言のままその感触を楽しむ。だけど、私の体調などお見通しな祐君はより眉根を寄せて軽く非難めいた言葉を口にする。

「まだ熱がある」
「でも、これ以上休むと、いいかげんあぶないし」

それは成績のことだったり、出席日数のことだったりするけれど、それ以上にあまりこのままぐずぐずしていたらこのままの状態が定着しそうで恐いからだ。
正直、まだ外に出るのが恐いと思う。
普通の男の子があんな風になってしまうのならば、他の男の人はどうなんだろうって。
皆が皆そんなことをするわけがないことはわかってはいる。だけど、理性とは違って感情は、私の恐怖心を刺激する。抗おうにも抗いきれない力の差。自分の意志を尊重してくれない圧倒的な他者。私は搾取される側で、それに一切抵抗することもできないなんて。
私の顔が青白いのか、祐君が心配そうに覗き込む。
一番に縋ったのが祐君だったせいなのか、それともずっと一緒にいた信頼感のせいなのか、幸いな事に私は祐君に恐怖心を抱かずに済んだ。むしろ、祐君のどこかに触れていれば安心することすらできる。でも、他の男の子に対しては今までのようには振舞えないかもしれない。

「大丈夫、田中さんにもお願いしておいたから」

祐君とはクラスが違うから、ずっと一緒にいることはもちろんできない。
特殊な事情があるとはいえ、そこまで祐君に迷惑をかけるわけにはいかない。
深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。

「大丈夫、たぶんもう大丈夫だから」

私と祐君の判断で、学校サイドには伝えなかった。保健室の先生は最後まで担任には言うべきだと主張していたけれど、もう一度あの時の事を話さなければならないかと思うと、とてもじゃないけどそんな気持ちにはなれなかった。
夏休みに感じた恐怖は今感じているものとは違い、どこか非日常の出来事だと捕らえていた。あんな風に激しい思いをぶつけられるなど、普通の生活をしている人間にとってあまりあることではないだろうから。
だけど、今回はほんの少し前まで普通だった人間がもたらした出来事で、こうやって学校へ行こうと決心した後も、正直不安を感じていないといっては嘘になる。

「行かないと」

行けなくなるから、という言葉を声に出す前に、祐君がそっと私の頬に手を触れる。

「無理はしないで」
「ん…」

それだけの会話で、なんとなく祐君には全部伝わっていそうで、こういう時に一番近くにいてくれるのが彼でよかったとしみじみ思う。
できるだけ普通に、そんな風にテーブルについた私は、必要以上に肩に力が入っていたらしい。いつものような母親の笑顔と、新聞を読む手を少し休め私に挨拶をしてくれる父があまりにも自然に振舞ってくれたから、何かを言いかけた私は一瞬で口を噤んだ。
たぶん、ごめんなさい、とかありがとう、とか言いたかったはずなのに、いつもの朝食風景のおかげで私は何事もなかったかのように母の手料理にありつき、体の力を抜いていった。



「いってきます」

そう言った後、僅かに心配そうな顔をした両親が、それでも笑顔で送り出してくれる。
その笑顔に力づけられ、私は祐君と一緒に学校へと足を進めることができた。





「だから言っただろう、気をつけろって」

中間テストが終わった途端、今度は部活が忙しくなった祐君が何度となく行くのをやめる、といったことを制し何時も通り部活へと参加してもらった。
私が休んでいる間中、部活を休んでいただろう彼に、これ以上私の我侭を聞いてもらうわけにはいかない。図書室で勉強する、という気分にはとてもなれない私は、祐君が嫌な顔をしながらも渋々といった風情で了承した数学教師の下へとやってきている。
最近はようやく先生の私に対する執着が、実の兄の私に対する執着と良く似ていることがわかってきた祐君は、イヤイヤながらも私が先生と接触することを認めるようになってくれた。
それでも、相変わらず涼しい顔をしながら祐君を挑発する先生に良い感情を抱いているはずもなく、私が頼りにしている大人、ということに目をつぶって我慢しているにすぎない。
だけど、私としてもこの人以外に悩みを相談できる大人がいるはずもなく、何かの引力を感じたように何かあるたびにここへと通ってしまうはめとなる。おかげで、この人からはかなり忌憚のない意見が聞けるのだけれども。

「気をつけろって、あんな意味だなんてわからないし、普通」
「普通わかるだろう、女が男に対して気をつけることなんてひとつしかない。もとも友達づきあいを進めたのは俺だから、今更何をって思うかもしれないけど」
「それは先生がそう思っているだけで、普通って何、普通って」

嫌みったらしく整った顔で冷笑されるのは、結構くるものがある。割と慣れたとはいえ、この人にこんな顔をされるのは苦手だ。

「年下だからってばかにしていたら痛い目をみる、って忠告しただろう?日に日に自分を追い詰めていったみたいだからな、あの馬鹿」

確かに図書館で彼と勉強している私をわざわざ連れ出し、そんな事を言ったような気もする。

「だからって、あんな子があんな風に…」

両手で抱え込んだカップが小刻みに震える。
それは、私の両手が震えているからで、それを見た先生は固まったままの私の両手からまだ暖かさの残ったコーヒーが入ったマグカップを引き取る。

「悪かった」

ぽんぽんと背中をあやすように叩かれ、なんとなく甘えてみたくて先生にもたれかかる。

「まだこんなこと言うのは早かったな」

いつもいつも偉そうで、上から見下ろしてくる先生が時折見せる顔は、とても優しくて、全く血のつながりがないというのに父や兄に対してするように無条件で甘えてみたくなる。

「こっちがあやまらないといけないな、最初に無責任なことを言って」

友達になれ、と確かに言ったのは先生だけれど、それを受け入れたのは私なのだ。だから責任は全部私にある。

「ごめん、和奈」
「ちがう、先生のせいじゃないから」

そう言いながら先生の体温に甘える。
ここへ来るまではひょっとして先生のことすら恐く感じてしまうかもしれない、そんなことを思っていたけれど、思ったよりも平気で安心する。
ずっとどこかで緊張していた体から少しずつ力が抜けていく。
私は、優しい人に囲まれているのだと泣きたくなるほど嬉しくおもった。

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KanzakiMiko/11.16.2006