「すみません」
「どうして?」
白い肌は青ざめ、こころなしか指先が震えている。
無理もない、俺がこんなところに閉じ込めてしまったからだ。
ここは図書室の倉庫として使われている部屋だ。ほこりっぽい室内には整然と閉架扱いとなっている書物が納められている。
もちろん、こんなところに納められている本を取り出すような奇特なやつはめったにいない。図書委員ですら、年に一度の大掃除にしか中に入らないことがほとんどらしい。
しかも、ここは図書室の奥にあるトイレよりもさらに奥に位置している。だからこそ和奈さん目当てのギャラリーの視線を受けたとしても、怪しまれずにここまで到達できるのだ。
「出して」
「嫌ですよ、せっかく二人きりなのに」
ギリギリまで後ずさりして、もうすでに彼女の背中は本棚に接触している。それでもできるだけ俺から体を離そうと力を込めているのがわかる。
「大声だすわよ」
「いいですよ、ここ壁厚いからどうせ聞こえませんし」
「何が目的?」
「口に出してもいいんですか?とてもじゃないけど聞くに堪えられませんよ、あなたでは」
悔しそうに唇を噛み締める。そんな仕種にすらいちいち煽られてしまう自分は末期症状なんだろうか。いつもは使わない頭をフルに利用してこんなことをしでかすぐらいには壊れていることはわかっているけど。
「頼みの高柳先輩と田中先輩は他校で交流試合ですし、鈴木先生は職員会議です。秋山先輩は塾に行くためにもう学校にはいません」
彼女の頼みの綱になるであろう人物を一人一人潰していく。思ったよりも多くの人間に守られている彼女は、それさえ剥いでしまえば非力なものだ。
狂っていると思われても、この千載一遇のチャンスをのがしてたまるかとばかりに、こんな場所に和奈さんを閉じ込めたのだから。
「近寄らないで」
わざとゆっくりと一歩一歩彼女の方へと歩みを進める。徐々に彼女との間の距離が短くなってゆく。
「俺、和奈さんのことが好きです」
血が出そうな程唇を噛み締めている。こんなことをしているのに、傷付いてほしくなくて、とっさに手を伸す。当たり前のようにその手をさけられ、黒い影が揺れる。
「もういいでしょ、わかったから」
「わかった?何をわかったんです?」
息を感じるほどの距離なのに、彼女の視線に威圧されそれ以上近寄ることができない。
「好きなんです」
彼女の視線が辛くて、ぎゅっと目をつぶったまま彼女をきつく抱き締める。
「高柳先輩が好きなのはわかっている、でも、もう止められない」
「離して」
「いやだ」
こんな状態なのに凛とした声が響く。
「手に、入れたい」
左腕で彼女を抱き締めたまま、細く白い首筋に手を這わせる。しっとりとした肌の感触に、押さえ込んでいた欲望がむくむくと大きくなっていくのがわかる。
「や・・・」
うっすらと血が滲んでいる唇を親指で拭う。
「好きです」
何度も何度もうわごとのように告白を繰り返し、その数だけ唇を貪る。腕の中で和奈さんが激しく抵抗する。女性にしては背の高い彼女でも、俺に比べたら小さくそして非力である。細い腰も薄い体も、どれだけ力をいれても現実感を伴わない。それならばともっと力を入れると、徐々に彼女の抵抗が弱くなり、最後にはぴたりと止まってしまった。
「和奈さん?」
そっと彼女の体を離す。くたりと彼女の上半身が力なくこちら側へと倒れ込んでくる。
無防備に寄せられた額は驚くほど熱を帯びている。何が起こったのかわからないまま、再び抱き寄せた和奈さんの体はとても頼り無く、覗き込んだ瞳は、熱に浮かされたのか潤んでいる。ともすると再び煽られてしまいそうな表情にすら反応出来ないほど、彼女の身体が弱っているのがわかる。この体温さえなければまるで人形のような彼女の体を抱きしめる。
「何を――しているんだ・・・俺は」
口に出したら夢からさめたように現実に戻る。自分がやっていることに青ざめ、地軸が傾きそうになるほどの衝撃を覚える。
先程までどこか興奮していた頭はすっかり冷め切っている。非力な彼女をこんなところに閉じ込めて、しかも用意周到に邪魔者が現れない時間帯を選んで。ぞっとするほど計画的で愚かな自分を心の中で罵倒する。
「ん・・・・・・・・・」
苦しいのか和奈さんの眉間には皺が寄せられている。
「大丈夫ですか!!」
馬鹿みたいな言葉しか掛けられない俺は、その体を抱き上げる。
思った以上に軽い体重に、どうしてこんなに酷い事ができたのかがわからなくなる。黒い影はどこかへ消え、胸の中には後悔しか浮かばない。
騒々しく和奈さんを抱えながら走っていく俺に、奇異の目を向ける連中がいたのにも気づかず、ただまっしぐらに保健室へと走っていく。保健室の扉が見えた瞬間、無我夢中でそれを開け放つ。
「・・・・・・なにしてんの?」
のんきにお茶などを飲んでいる保健医に意味も無くむかつき、大声で叫ぶ。
「和奈さんが!!!」
「ん?ひょっとして今かついでいるの酒口さん?」
それでもおっとりとこちらを眺めたままの保健医は、いつのまにか俺が肩にかつぐ格好となった和奈さんに視線を向ける。
「あの、意識がなくって、すごい熱で」
丁寧に保健室のベッドに彼女を下ろしながら訴える。ようやく事情を察したのか、ようやく仕事の顔に戻った保健医が和奈さんの傍へと歩み寄る。
「うーーん、気を失っちゃったのねぇ。貧血かしら?」
「貧血?貧血って、だってこんなにぐったりして!!」
「いや、彼女には良くある事だし。確かに熱はあるけど、病院へ行くほどじゃないわね」
「でも!!!」
目の前の彼女の有様と、保健医の態度がちぐはぐに思え、なおも言い募る。
「それより、この唇の傷はなんなのかしら?」
掛け布団をかけながら、そっと彼女の頬にふれた先生は、半ば確信しているのかもしれない。俺が何をやったのかを。
首筋にもうっすらと鬱血の後が残る。その傷跡にそっと触れ、こちらの方へと鋭い視線を向ける。
「それは!」
そう言ったきり、なんの言い逃れもしない俺を一瞥する。
「自分がやったことがどれだけひどいことなのかわかってるわけ?」
「・・・・・・・・・はい」
それ以上一言も発することができなくて、お互い沈黙のまま。先に口を開いたのは先生の方。
「本来なら担任に報告しなくちゃいけないけど」
当たり前の事なのでやはり声も出ない。それだけのことをしたのだと、馬鹿な俺でもわかっている。
「まあ、和奈さんしだいね」
大好きな彼女を傷つけた。自分勝手な理由をつけて。
どうしようもないほど自分の存在が嫌になる。
それでも、諦めきれないほど彼女の事が好き。
本当にもうどうしようもないほどに。
突然、ただの後輩だった人間が、一人の男になった。
そんな時自分がどうしようもないほど非力な人間なのだと思い知らされる。
祐君以外には触れられたくないのに、それを許してしまうなんて、と。
やったこともない追いかけっこをしている。
まだまだ子どもの自分が泣きながら祐君を追いかけてく。
必死に追いかけていくのに、彼は笑いながら逃げていってしまう。がんばって追いついて彼の手を掴もうとした瞬間、彼は今の彼になって、私を置いて走り出してしまった。泣きながらその場に立ち尽くしている私は、祐君の声で目が覚めた瞬間、今までのが夢なのだと気がついた。
「ほら・・・」
優しい祐君の指で頬を撫でられ、現実にも泣いていた事を知る。
「祐君」
彼の名前を呼ぶと、安心したのかなおも涙が零れ落ちていく。
「大丈夫だから」
「でも」
「大丈夫。和奈は俺が守るから」
汗ばんだ私の右手を両手で包み込む。
「祐君・・・」
「なに?」
「大好き」
祐君の手の暖かさと、彼が側にいてくれる安心感とでそのまま眠りに落ちていく。暖かで柔らかい毛布に包まれたような気分で。