姫、酒口先輩のあんなに厳しい顔ははじめてみた。彼女を好きになって以来、陰でコソコソ観察するような真似をしてきたけれど。
「涼介?」
知らず知らずのうちにぼんやりとしていた俺の背中を友人が叩く。
「いってーな」
まだまだ体育祭真っ最中。勉強より身体を動かすことが好き、というよりむしろソレしかとりえがない俺は、こういう行事を楽しみにしてきたのに。酒口先輩の他者を切り捨てたような口調に気分がどんどん沈んでいく。
「なあ、酒口先輩って・・・」
「なに?おまえもとうとう興味もったわけ?」
「いや、なんでもない」
どうやって伝えていいか迷った挙句に沈黙する。
彼女の持つ雰囲気だとか、それによってもたらされる彼女のイメージだとか、そういったものが頭の中でごちゃごちゃになっていく。
最初に感じたのは、反発。
次に惹かれたのは、華奢な体と端正な顔立ち。
今抱いているのは、どうしても名づけられないわけがわからないモヤモヤした思い。
彼女に関しては噂話以外何一つ知りもしないということはわかっていたつもりなのに。
考えても仕方がないことは考えないでおこう。それに、空っぽの脳みそはこれ以上の答えをだしてくれるわけがない。
「おい、お前の出番だぞ」
再び友人の声がかかる。
もっと深く彼女の事を知りたいと思うのは、どうしてなんだろう。
唐突に、以前見た光景を思い出す。あれは、唯一の接点である図書館での出来事。
そっと、彼女から遠い席に座り込んだ俺は、ぼーっと彼女を視線で追いかけていた。
相変わらず彼女の前には鈴木先生が陣取っている。なにやら小声で話している二人は高柳先輩とは違った意味でお似合いだと思ってしまったんだよな。
カモフラージュで手にした文庫本のページはめくられることなく放っておかれる。
「和奈」
入り口から聞こえてきたのは、学内でもっとも有名であろう高柳先輩のものだった。
図書委員なのか、貸し出し所付近にいる女子たちのピンクのオーラがビシビシ伝わってきたのが少し恐ろしかった。
「?早くない?」
「や、ちょっと用事を思い出して」
それだけを話すと、すっと彼女の額に手を当てる。
あまりに素早い動作に酒口さんは少しも動けないでいる。
「やっぱり・・・」
「ばれた?」
周囲にはさっぱりわからない会話をしながら、酒口さんが帰り支度を始める。鈴木先生はなにやら呆れ顔で高柳先輩の顔を眺めていた。
「相変わらず過保護だな」
「和奈の体調の変化に気がつかないやつに言われたくないですね」
先生に対する態度とは思えない返答を返す。一応優等生で通っている彼がそんな口の聞き方をすることに驚きを覚えた。
「それとも先に送って欲しかったか?」
挑発的な態度を続ける先生に、陰で囁かれている不穏当な噂を思い出していた。
にらみ合う両者を尻目に、酒口さんは淡々と片付けを終えた。
「あいかわらず仲がよいのね」
確実に聞き耳を立てていたであろう全員が椅子から落ちそうになるセリフを吐いて、優雅に先生と挨拶を交わす。
「先生もいいかげん祐君をからかうのはやめてくださいね」
母親が子どもを叱るような雰囲気で鈴木先生に話し掛ける、すると今までに見たこともない微笑を浮かべた。
鉄面皮だの無表情だのと揶揄される鈴木先生が笑う姿をはじめてみた。
男の俺でも思わずその笑顔に釘付けになってしまう程の衝撃。
ここからは聞こえない会話を少し交わした後、二人、高柳先輩と酒口さんは帰っていった。また、いつもの無表情に戻って、鈴木先生も図書館を後にしていった。
その時、取り残された形となった俺は、どうしようもないほどの疎外感を感じていたんだ。
そもそもそんなものを感じていいほど俺はあの人たちとは仲が良いわけではない。むしろ高柳先輩にかんしては悪感情を持っているだろうし。だけど、俺はどうしようもないほど、あの場所にいたかった。
よく晴れた空の下、あの時感じた感情がなんだったのかうっすらと理解する。そうして、それが何なのか初めて自覚する。
俺は彼女が好きなのかもしれない、と。