あまり物事を深くは考えない葉月が、珍しく、本当に奇跡的に考えてしまった結果、次の日には発熱をする、という異常事態を引き起こしてしまった。
常日頃考えないつけがどっとやってきた、ともいえる珍現象に、工藤家は朝から大騒動を繰り広げる羽目となった。
もちろん、理由など知らない家族、主に睦月と文月にしてみれば、葉月が熱を出すなど小学校以来の出来事で、各々行くべきところに行かない、などと言い出す始末だ。
そんなことは先刻お見通しの母親に放りだすように玄関の扉を閉められ、あまつさえチェーンを掛けられた二人は、渋々学校や会社へと赴いていった。
三十分ごとにやかましく母親の携帯を鳴らす着信音に、いささか辟易をしながらも、久しぶりに葉月を独り占めできる喜びに、母親にしても体調の悪い娘を置いてきぼりにして浮き足立っている。
「葉月ちゃん、アイスクリーム」
「いらない」
フローズンヨーグルト、カキ氷など、手を変え品を変え、母親は葉月の部屋と台所を往復している。静かにしてくれ、と言いたいのを我慢しながらも、眉間に皺を寄せ、その都度返事をする。
そもそも、熱を出す理由が少しやましい。
葉月にとって理解ができないことを考えないようにしながら、中途半端に考えてしまってこんな目にあったのだ。大威張りで熱がある、とは主張できない。
熱はあるのに、大して頭は痛くは無く、本当に車のオーバーヒートのような状態で、ただただ熱くてだるい。
水に濡らしたタオルを大人しく額に乗せ、眠りすぎで昼寝を諦めた両目で天井を眺める。
やはり、思い浮かべるのは特定の人物で、熱で弱っているせいなのか、昨日よりそのことについて考えることをやめられないでいる。
葉月はあきらめきって、取りとめもない思いをそのままちらばったままにさせておく。
友達、異性、同棲、別離、浮気、二股。
八木の影響か、ネガティブな言葉が大半を占め、葉月の気持ちをずっしりと重くさせていく。
懲りずに冷たいものを持ってきた母親に返事をし、不満そうな母親を定位置へと返す。
ぼんやりとしていく思考。
高山教授の顔。
すでに、その名前も顔も、葉月の脳裏から消え去ることなく停留する。
唐突に鳴った携帯電話の音に現実に戻され、よく確かめもせずに通話ボタンを押す。
無意識の動作は、今の葉月にとってみれば最大級に動揺させる声をもたらした。
「葉月さん?」
「ほかに出る人はいないと思いますが」
ストッパーの効かない会話は、機嫌の悪さを隠そうともしない。
「風邪だそうですが、大丈夫ですか?」
「んーーー、そこそこ」
「すみません、ちょっと気になって」
高山は携帯のメール機能を使えないし、使う気もない。
だから連絡は口頭か、電話越しでしか行なわれない。
それが今葉月にとってみれば嬉しくもあり、辛くもある。
「八木の彼女帰っちゃったって」
「へ?」
葉月の体を心配して電話をかけてくれた人間に、まるで関係のない話題を続ける。それでも高山は、とりとめもない葉月の言葉を辛抱強く聞きつづける。
徐々に葉月の中で、もやもやが整理される。
―――そう、私は、ずっと。
「高山さんは八木と同じ?」
「一緒にされるのは心外ですが」
「捨てちゃう?」
「ものにもよりますけど」
「余所見する?」
葉月にとってみれば整合性はとれているけれども、第三者からしてみればまったくもってわけのわからない会話が飛び出す。段々と、それが男女関係に関するものだと理解した高山は、己が今の葉月に与える影響を最大限考慮しながら会話する、といった慎重な姿勢をとることができた。
言葉どおりに熱でうなされた女と、真意を探ろうとする男の、シリアスなのかコメディなのか、わからない会話が淡々と葉月の部屋に響く。
「しません」
「高山さんも睦月と一緒?」
「睦月というのがお兄さんで、それがどういう人物なのかは知りませんが、その人が誠実ならばその通りで、不誠実ならば違います」
嫌っていることは知っているものの、この人となりについて詳しく知らない高山なりに、安全策の答えを弄す。
「不埒の塊、下半身で生きる男」
「それと僕が一緒だとでも?」
「じゃあ、文月と一緒?」
「……恐らく違います」
推定をして、一足飛びに否定から入る。
相手に見えもしないのに、葉月は満足そうに頷く。
「んーー、女嫌いで女好きの衝動人間」
理解できそうで理解できない言葉を、頭をフル回転させながら解読する。
「一緒にしないでください」
「じゃあ、じゃあ、浮気しちゃう?」
「しません」
そもそも正式に付き合ってもいないのに、浮気も何もないのだが、高山は最大限深慮を重ねる。
例え相手が熱で突飛な思考過程を経たとしても、ここでしくじったら取り返しはつかないのだと、本能が告げている。
葉月にしても、理性で押さえていたストッパーの無い状態は、ある意味素の自分だ。
兄弟のいじめに悩み、性癖に幻滅し、さらには一番近しいともいえる八木の不誠実が加わり、より一層男、という性に対して懐疑的にもなっている。
だからこそ、葉月の中で、大きな部分を占めながら、ずっと心にひっかかっている高山のことが気になって仕方がないのだ。
男ってこういうものだと思っているけど、あなたはどうですか?
素直に聞けなかった疑問が、熱というアクシデントを通して、ごくごく表層に現れる。
その裏返しは、あなたのことを男として気になっています。
たったそれだけのことを様々な拒否反応を経て、ようやく口に出すことができたのだ。少々それが、わかり辛い散文だ、ということは葉月らしいと笑うしかないのだけれど。
「僕は、今のところ葉月さん一筋です」
「ずっと?」
「一生、とは言えません」
「言えない?」
「そんなことは気軽に口にできません。長い将来はどうなるかはわかりません。でも今現在、葉月さんが好きなことは間違いありません」
どうなるかはわからない、などと、普通は思っていても口に出さないことをさらりと口にする。
だからこの年で独身なんだ、と、同窓生達は厳しくツッコミを入れるだろうけれども、彼の中のひねくれた誠意は出来もしない約束をするほど単純ではない。
「じゃあ、他に好きな人ができたら?」
「そのときにはきちんと葉月さんに伝えます」
「そっか、うんうん、そうだよね」
「もっとも、そんな心配をするのは無駄だと思いますけどね」
「私も、好きな人ができたらちゃんと言う」
「……それは、どういう」
「おやすみ」
勝手に納得をして、かってに通話を遮断する。
自分の中で出した答えに満足をしながら、葉月はあれほど睡魔が遠ざかっていたにも関わらず、あっけなく夢の中へと落ちていった。
放り出されたような高山は、携帯を握り締めたまましばし呆然とする他はなかった。
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