「葉月さーーん」
「工藤ですが」
「……怒ってます?」
八木にしては珍しく、葉月の出勤とほぼ同時に居室へ表れた。
後ろめたさと嬉しさとよくわからない感情を混在させた八木は、媚びをうるように葉月のもとへやってきた。
「別に、怒る理由なんかないし」
昨日からふつふつと、何かが気に食わない、と繰り返される感情の正体がわからないでいた。
葉月は、特別に八木の事を好きだ、ということは決してない。
嫌いではない。
どちらかというと、面白い人間だと、観察をするのにはうってつけの人間だと認識している。
だとしたら、新しい現象が起こった彼を楽しくからかうことこそ、葉月にしてみればもっともな態度で、こうしてなにやら気に食わない感情を抱くなどということは、ありえないはずだ。
何度も何度も、どうしてそれほど感情の波を揺さぶられるのかを考えながらも、チラチラと浮かぶ特定の男の顔を振り払うたび、振り出しに戻ってしまう。
だから、理由もないのに不機嫌だ、という八木にとってみればまったくもって理不尽な態度をとってしまっている。
「前の子は?」
「あーーー、単刀直入っすね」
「ん、まあ、今のところ暇だし」
ルーチンの仕事は八木と話をしながらでもできる程度のものであり、仕事を押し付ける教授と准教授はまだ出勤前である。
「あれからやっぱギクシャクしちゃいまして」
「気にしなくてもよかったのに」
幸い電子機器などにも支障は無く、葉月個人の被害に留まるものに収まった。その被害にしても、多少衣類が濡れた程度で、書類などにしても周囲の迅速な行動のおかげか、最小限の損傷ですんだのだ。
やったことは褒められたことではないが、見知らぬ土地に放り出され、ノイローゼに陥ってしまった人間を必要以上に責めるのは酷だ、と、葉月は考えていた。
「気に、しますよ」
「そんなもの?」
「ええ、普通は」
「どっちにしろ、君のフォロー不足でしょ?」
仕事が忙しい、というのはいいわけだ。
いくら忙しくとも、自分の都合で振り回した相手の面倒ぐらいみるべきである。
「それを言われると痛いんですが」
「で?」
「で、って言われましても」
あれから二ヶ月程度しか経過していない。
その間に別れ、新しい恋人を探し出すには短かすぎる時間だ。
「なんとなく、こう、自然消滅っぽく」
「同棲してて?」
「あーー、こんなところ嫌だって実家に戻られてそれっきり、みたいな」
「それってちゃんと別れたの?」
「……たぶん」
八木のあまりに後手後手で、優柔不断な態度に葉月は頭を抱えた。
恐らく、きっと、相手の方はこんなことになるだなんて考えてはおらず、恐らくそう遠くない将来に、再びあれ以上の爆発が起こる予感がする。
「携帯を出せ」
「ええ!!嫌ですよ」
「電話するけど?」
本気の脅しを感じ取り、渋々携帯を差し出す。
勝手は違えども、なんとかアドレスをひっぱりだし、やはり見つけ出してしまった自分の番号をさっくりと消去する。
「何するんですか!」
「これ以上巻き込まれたくない。金輪際私の番号は入力するな」
「どーしてですか!何かあったら」
「教授に連絡」
「でも」
「准教授に連絡」
「だって」
「事務課長に連絡」
「ええーーーーー!!」
「やかましい、また登録したら、今度こそきっちり東京に連絡してやる」
どうしてそれほど頑ななまでに葉月の番号を登録しようとするのかを、葉月は理解できず。
何故強硬手段にうってまで、己の番号を登録されるのを拒否しようとするのかを、八木は理解できない。
だが、弱みを握られた上に、強気に出られた葉月に八木ごときが敵うはずも無く、イヤイヤながらも承諾せざるを得ない。
「あんたも、今度はちゃんと会話しなさいよ。迷惑だから」
あっさりと、そんなことを吐き出され、自ら近寄ったにしては手酷い傷を負わされたかのように、葉月から逃げ出していった。
一方、言いたい放題の態度を取って割には、葉月の心は一向に晴れてくれない。
八木と、前の恋人の年月を考える。
彼が学生の頃からの付き合いだと言っていたのだから、少なく見積もっても3年は越えているはずだ。東京の大学から八木がこちらへ越してきて二年。たったそれだけの間にあれ程すれ違い、強かった絆はあっけなくも消えてしまった。少なくとも八木にとってみれば、だが。
そこでふと、昨日からちらちらと浮かび上がっては必死で振り払おうとしている人物に思いを馳せる。
たかだか数ヶ月。
その人物と、葉月の付き合いはたったの数ヶ月だ。
もちろん八木達のような密度の濃い付き合いなどとは言えない。
そんなものはそれに比べれば拭けば飛ぶような重さでしかない。
―――違う、私と彼は、ただの友達だ。
いつもまにか口に出してしまった言葉に驚く。
振り払って、必要なメールをプリントアウトする。
とにかく仕事を済ませなければいけない。
葉月は何かを忘れるかのように、雑用にとりかかる。
そういうときに限って、仕事はやってこない。
その日一日、葉月はある人物の事を思い浮かべては、消す、を、無意識に繰り返していた。
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