「葉月さん?」
いつから名前を呼ばれているのか、ということに気がつきもせず、しっくりと馴染んだその呼び声に葉月はあたりまえのように返事をするようになっていた。まるで刷り込みのような気長な作業が功を奏したようだ。周囲の人間にしても、二人が二言三言言葉を交わす光景は当たり前のものとして写っており、それをとやかく言うほど物見高くもひまでもないらしい。
「えっと、おいしい小籠包を出してくれるところを聞いたんですけど」
「ほんと?えーーーー、教えて教えて」
「じゃあ、今度一緒にいきましょうか?」
「はい、よろこんでーーー」
高山が葉月の興味を引きそうなネタを仕入れてきては、その餌をぶらさげてデートに誘い出すことに成功するようになってからだいぶ時間が経過した。
意識的に高山が行なっている行動を、葉月は無意識として受け取っている。その違いはあるものの、高山にとっては葉月といられる時間が増えることには変わりなく、一向に変化しそうもない二人の間柄、といった問題に目を背けたままでいられる。
穏やかな微笑を湛えた高山に、気軽に右手を振りながら葉月もやはり特上の笑顔を浮かべている。いつのまにかそんな風に笑いあうようになったというのに、肝心の葉月はそのことに無頓着だ。
高山といるとおいしいものが食べられる、それ以上でも以下でもなく、そもそも嫌いな人間とはいくら極上の食事とはいえともにすることには苦痛を伴うであろう、といった視点がまったくもって欠けている。
今日もあっさりと高山の誘いにのり、恐らくほいほいと彼の運転する車に同乗するであろう自分の姿に一片の疑問も思い浮かばないでいる。もっとも、変にややこしい男女意識をもっている葉月が、そういう高山と自分の行動が世間一般から見ればどういう風に受け取られるかを知らないでいるのは、高山にとっても幸せなことなのかもしれないけれど。
珍しくリビングで本のページを気もそぞろにめくっている葉月は、少々機嫌の良さそうな兄が存在している事に気が付いた。明日は土曜日で、明後日は日曜日。あたりまえだが仕事の無い葉月と明日はたまたま休みだという睦月がこの場でのんびりしていてもおかしくはない。もっとも、とっくに帰ってきて、食事も入浴も済ませ、母親の多愛の無いおしゃべりに散々付き合った葉月と違い、睦月はついさきほど帰ってきたばかりのようだ。近くに寄れば威嚇する妹に気を使い、少々離れた位置に存在するはずの睦月からはかすかにアルコールの匂いが漂ってくる。
それを咎めるでもなく、自分とは違って随分華やかな生活を送っているな、と、ぼんやりと思うだけだ。
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した睦月が、割と穏やかな葉月の様子を見て取り、徐々に間合いを狭めながら葉月に近寄る。
それを視線で威嚇しながら、葉月は気もなくページをめくる。
「何?それ?」
読書などに興味もなく、ただひたすらにそれを読んでいる人間に好奇心のある睦月が訊ねる。
「恋愛モノ」
葉月としては珍しく、簡潔に、それでも大嫌いな兄に返事をする。あえて喧嘩をするほうがややこしくコミュニケーションをしなくてはいけないことに気が付いたからだが、それでも睦月はたったこれだけの会話でも嬉しそうに顔をニヤケさせている。
「珍しいな、葉月がそんなもの読むなんて」
少々ストーカー体質の弟にでも聞いたのか、この兄まで葉月の読書傾向を熟知しているようだ。もっとも、あからさまに殺人事件、と銘うった小説ばかりを好んで読んでいるのだから、その傾向は誰が見ても明らかなのかもしれないが。
「……押し付けられた」
気乗りしない本を膝にのせ、感情のこもらない返事をする葉月は、そのやり取りを思い出し思い切り顔を顰める。
暇があれば本を読んでいることが多い葉月に、同僚がお気に入りの本だ、といって寄越したのがこのストレートな恋愛モノの本だったのだからたまらない。もともとそういった機微にとことん疎い彼女は、思い悩む女性の独白も、おしゃれで軽妙な男女のやりとりも、さっぱりと頭に思い浮かばない上に、それに感情移入をして読め、と言う方が無理な話だ。ただ字面だけを追って日本語を理解するだけとなる読書は、読書感想文を書くための読書を思い出すようで、苦行としかいいようがないのだ。だったら読まなければいいものの、根が真面目な葉月は、さらりとでも目を通さなければ悪いような気がしてしまい、気のない読書につながってしまったのだ。
「……デート?」
本当に珍しく、恐らくそういった本を読んでいたせいだろう、葉月が兄に質問をぶつけた。
そのことに驚いて、コップを落としそうになった睦月は、さらに葉月の方へ近寄ろうと歩を進める。
「恋愛って、楽しい?」
だが、どうしても第三者に尋ねたかった疑問を聞かずにはいられなかった葉月は、とりあえず友人に聞くよりまし、と言う判断で、目の前の兄にさらに質問を重ねた。
あまりの喜びに理性を失ったとしか考えられない睦月は、葉月へと近寄り、おもむろにその両手を捕獲する。
「やだな、葉月、やきもちか?大丈夫、兄さんの愛はいつもいつも葉月のものだから」
最後まで言い切らないうちに、近くにあったスリッパで頭を叩かれた上に、蹴り飛ばされた兄は、幸せそうな顔をしてソファーに頭だけを静めてそのまま寝入ってしまった。
恐らく相当に酔っていたのだろう。あれだけ酒臭ければ当然だ。
こんな時期でも風邪を引くかもしれない、といったささやかな罪悪感が掠めないでもないものの、あっさりと無視して、葉月は読みかけの本を片手にさっさと自分の部屋へと引っ込んでいった。
あの馬鹿に聞いた私がやっぱり大馬鹿だったんだ。
そんな思いを胸に、兄妹の溝は狭まるどころか、さらに広がっていった。
>>戻る>>次へ