13/小さな花が咲く時に

 居室の床までもが水に濡れた状態で、それを呆然と眺めながら葉月は途方にくれていた。
いや、葉月本人にしても頭のてっぺんから座っていた太もものあたりまでずぶぬれなのだから慌てなくてはいけないのに、あまりに想像外の出来事過ぎて、考えることを拒否しているのだ。
ぼーっとしたまま動けないでいる葉月をよそに、視界に捉えられる範囲内の人間は大慌てでタオルだの雑巾だのを片手に走り回っている。その一つが葉月へと渡され、促されるままに漫然と頭を拭いてはみるものの、イマイチ今自分がどういう状況に置かれているのかを理解できないでいる。
水に濡れてふやけてしまった書類。復帰が可能かどうか怪しそうなパソコン、濡れた状態がはっきりとわかるお気に入りのパンツ。そのどれもが現実離れをして、それでも濡れた不快感だけは葉月に付きまとう。
この惨状を引き起こした元凶は、八木に取り押さえられ、それでもなお人類外の何かを叫びつづけている。

「葉月さん」

どういうわけか所属する研究室のボス、ではなく、隣の研究室の教授がやってくるにいたって、ようやく葉月の思考が動きはじめた。
とりあえず救い出せるだけの書類をかき集め、濡れていない机の上へと避難をさせる。頭にタオルを載せ、自分の身は後回しにしながらも、物理的被害をできるだけ最小にするようにと努める。

「葉月さん!何をやっているんですか。まずご自分からなんとかしてください」

細細と動く葉月を制し、がしがしと乱暴にタオルで頭を拭かれ、ようやく自分がみすぼらしい状態であることに気が付いた。
ついでに、その両腕が高山教授のものだと認識してしまい、再び思考がフリーズしそうになる。

「す、すみません。大丈夫です、自分でやれます」

慌ててそのタオルを自ら引き取り、大雑把に水分をふき取る。
洋服の方はもはや葉月も一瞥して諦めてしまった。ここからなら自宅が近いこともあり、一旦昼休みにでも着替えを取りに行けばよい、とそう判断する。一応、学生たちの対処が早かったせいなのか、書類以外の被害はそれほど酷いものでもなく、後はパソコンが怪しい挙動を示さなければ一段落、というところまできて、ようやくヒステリックに喚いている人物に目を向けることが出来た。
葉月が顔を向けると、迷惑を被ったほかの学生からも注視された状態で幾分大人しくなった女性と視線がぶつかる。
ギロリ、と睨み返され、身に覚えのなさに首を傾げる。

「なにかわいこぶってんのよ。毎日毎日毎日毎日、人の男にべったりして!」
「仕事ですから」
「仕事仕事って、何やってんのよ?なんでこんなに学校なんてこなきゃいけないわけ?おかしいでしょ」
「おかしいもおかしくないも、八木さんは先生ですし、私は事務員ですので、学校で仕事をするのはあたりまえでしょう」

あくまでもかみ合っていない会話は八木の恋人からもたらされるもので、やはり、というかまだ、というのか、彼女は八木の生活パターンというものを理解していないようだ。
確かに、365日24時間学校にいるような研究者もいて、そういう人間は葉月にとっても理解の範疇を軽く超えてはいるが、八木に関して言えば、そこそこ熱心な、だけれどもプライベートも大切にする今時の若者。という認識しかしていない。
それこそ一昔前の研究者であった父や伯父が基準になっているものだから、軸がぶれている事はわかってはいる。葉月の認識が世間一般のものでもないことも理解はしている、だが、これほど長い時間付き合いつづけ、それでもなお彼氏の仕事をまったくもってわかろうとしない女の思考回路というものをわかりたくも無い。

「パソコンの方は何かあったら見積もりをお送りしますのでそのつもりで、あと、弁償しなくてはいけないものがありましたら、それも八木先生から追って連絡しますので、お引取りいただいても結構ですよ」

ぎりぎりと奥歯を噛み締め、軟弱な八木青年をふりきり、女が葉月へと殴りかかる。
平手ではなくて、拳で来る女性というのも珍しいのではないか、といったあまりこの場にそぐわない考えが浮かび、葉月は逃げ遅れた。
頬に走る衝撃に耐えるべく、両目を瞑る。
だが、その衝撃はいつまでたっても葉月にはもたらされず、代わりにどこか鈍い音とともに、くぐもった男性のうめき声がその場に響き渡った。
恐る恐る目を見開くと、呆然とした八木の顔と、ようやく駆けつけた鈴木教授と、蹲る男性一人が、葉月の目の飛びこんできた。
高山教授が自分をかばって思いっきり殴られたのだと、葉月が認識したときには八木の恋人の頬を叩いた後だった。
最初からこうしておけばよかった。
鼻水をたらしながら自らの非を棚に挙げ、葉月を論う女を尻目に、高山に寄り添う。除ける事もガードすることもせず、思い切り拳を受け止めてしまった高山は、脆弱な女によるものとはいえ、かなりのダメージを受けているらしい。
おろおろと、傷の具合を尋ねるぐらいのことしかできないでいる葉月は、ようやく顔色が戻り、ゆっくりと顔をあげた高山と目が合う。

「あの、保健センターに行ったほうが」
「いえ、大丈夫です、どうということはありませんから」

明らかにやせ我慢であろう文言を口にする。
だが、確かに切り傷やあきらかな骨折、などという症状とは違い、打ち身というものはわざわざ治療施設に赴くのが面倒な手合いのものではある。おまけに理由が理由だ。大学内の施設に行って、わざわざ噂をまきちらしにいくのを嫌がる気持ちもわからないでもない。

「時間がたって何かありましたら大変ですし」
「そんなに年寄りじゃないです」

なにも葉月は筋肉痛のことを言っているわけではないのだが、その情ない言い草にこんな場面だというのに思わず吹き出してしまう。
「いえ、ごめんなさい。笑っている場合じゃないですね。せめてシップだけでも、って、こういうのって冷やしていいの?」

ちょうどあばらのアタリに入った打ち身、というものにどう対処していいのかわからず周囲に群がる学生に訊ねる。

「本当に大丈夫です。たいしたこと無いですから」
「その割には痛そうですが」

そのやせ我慢のしかたに、思わず患部を人差し指で弾きたくなる。

「あの、でしたらお願いがありますが」
「へ?はいはいはい、なんでもどうぞ。シップですか?それともスプレーですか?貰ってきますよ?なんでも」
「はい、なんでも、ですね」
「なんでも、です」
「じゃあ、今週の日曜、一日付き合ってください、けが人の私に」
「いいですよ、って、はい?」
「そういうことで」
「って、あれ?ちょっとまってください」

先ほどまであれ程痛がっていた高山は、きびきびとした動作で惨状のあった居室を去っていった。
取り残された葉月は、先ほどの刃傷沙汰など忘れ去り、新しい好奇心の種にわくわくとした学生にとりかこまれ、呆然とするのみ。高山を呼び止め様とした右手が虚しく宙に浮き、どうしていいのかわからなくなった葉月は、手近なところでにやにやしていた学生のおでこを軽く弾く。

「研究に戻りなさい」

幾重にも間延びした返事を残し、彼らも実験室へと戻っていく。
仕方なしに冷蔵庫からお気に入りのオレンジジュースを取り出し、お昼休み前だというのにそれを一気に飲み干す。
無かった事にしよう、とりあえず今だけは。
そう暗示にかけた葉月は、何事も無かったかのように濡れた服のまま仕事にとりかかる。
その奇異な姿を誰も咎めることもできず、キーボードの音だけが静かな室内に響き渡る。
葉月が自分自身に掛けた暗示は、思いのほかよく効き、上手い具合に定時で帰宅できた彼女が自転車にまたがった頃には、本当に今日は八木の彼女が暴れて大変だった、という事実しか彼女の脳みそには残されていなかった。



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9.11.2008

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