クロロ王女の熱烈な誘いをやんわりと断り、途中で彼女の席へ挨拶に行く程度にとどめることができたキセは、シモンと、渋々、といった表情で付いてきたジェーンとで貴賓席へ足を踏み入れた。
競技場のようなその施設は、円形にぐるりと観客席が設けられており、その中でも二階席以上の半分ほどは、個室という形式をとっている。その中でももっとも豪華でもっとも広い空間を占有しているのは王室専用の観客席であり、そちらの方に向かって演舞や競技を行うものが頭を下げることが慣わしとなっている。最も中心となる個室には直系の王族や王族直々に招いた来賓のみが入場を許され、そこから離れるほど位が低くなる、という一目見てローレンシウムの貴族階級が直視できてしまう構図だ。当然キセは王族の個室から一つ置いたところに設けられた席へ招待されており、後ろの通路ではそれぞれの護衛たちがほぼ等間隔に並んでいる様は荘厳でもあり異様でもある。
「姉さま!」
やや興奮気味のシモンを席へと落ち着かせ、キセも隣に腰を下ろす。その後ろを騎士の正装をしたジェーンが、兄が立つはずの舞台を見下ろす格好となっている。
「ジェーン姉さま、格好いいです」
ほとんど知らない、だが姉という血縁関係にあることだけは確かなジェーンに、ぎこちなく、だが憧れの気持ちをもって声をかける。
キセに関して思うところはある彼女ではあるが、病弱で素直な彼を無碍に扱うほど冷たい人間ではない。ジェーンは、賞賛の言葉に心からの笑顔で答える。それをキセは目の端にいれ、余計な口を挟まないように闘技場を覗き込む。
ややはしたないものの、それでも年齢だけを考えればまだまだ子供のキセは、遠慮なく身を乗り出す格好で兄を探す。
そろそろ出場者が全員集められ、王の開始の合図がもたらされるはずだ。それぞれの所属別に集まり始めた騎士が、ようやく全て揃い、誰かの号令の元、一斉に敬礼をする。
それを受け、王が立ち上がり、開催の言葉を述べる。
静まり返っていた会場は、一気に人々の歓声で盛り上がり、出場者たちが舞台を降りていく。
毎年収穫の後に行われる競技会は、貴族だけではない庶民の楽しみの一つとなっている。当然彼らもいくらかの金か、コネを使えば入場することができ、そういった人々こそまさに闘技場のすぐ側をぐるりと取り囲むようにして観戦している。椅子が用意されている区域や、それすらない区域の観客席も、それぞれ盛り上がり、人だかりができている。恐らく賭け事などもされているのだろう、熱心に話しこみ、金のやり取りをしている人々を伺うこともできる。
特に今年は、豊作であったこと、またさらには、アスター王子がようやく戴冠するというめでたい出来事が重なったため、異様な盛り上がりをみせている。恐らく戴冠式も、めったにない祭りとして、国民は喜んで祝って騒ぐのだろう。
「姉さま、兄様は?」
「お兄様はまだまだですよ、あれでいてどうもお強いそうですから」
公爵家の嫡男様ということで、色眼鏡で見られていたらしい彼ではあるが、負けず嫌いの性格と努力する根性が功を奏し、今では剣術も学問も上位の成績に上げられている。
実のところは、後ろに控えているジェーンも上位者の一人ではあるのだが、そこには色々な思惑があるのだろう。面白くない顔をしたまま、ジェーンは自分が立つはずであった闘技場をみつめている。
「すみません、姉上。挨拶にいってまいります」
あと少しで試合が始まる、というところで、キセは王女への挨拶を済ませておくことにした。
恐らく試合さえ始まってしまえば、キセのことなど眼中になくなるだろうが、王女との約束を守った、という形式だけは整えておかなくてはいけない。
重い腰を上げ、控えの侍女やシモンのかかりつけ医に会釈をし、廊下へ出る。それぞれ紋章の異なる武具を身に纏った武官の視線を受け、王女がいるはずの貴賓席を訪ねる。僅かな距離にこれほどの武官がいる光景などお目にかかったことがないキセは、容赦なく降り注ぐ視線の多さに辟易する。
控えにいた王女付きの侍女は、すでに話が通っていたのか、あっさりとキセは兄王子とクロロ王女がいる席へと通された。
本来なら隣には王子妃が座っていなければいけないのだが、病気療養という名目で里へ返されたため、仕方なく妹である王女が付き添う形をとっている。跡取りを設けるだけに迎え入れた側室は、こういう場に随行しないのが常だ。
キセは貴婦人らしい礼をし、許されて顔を上げる。
しかしながら、そこには、キセが予想していた人物以外の貴人、が招かれていた。
「お、お初にお目にかかります。公爵家次女、キセにございます」
キセは再び頭を下げる。
「はは、さすがのあなたも、緊張しますか?それとも彼が怖いのかな?」
アスター王子が指す方向には、平均よりも随分と丈の大きな男が立っており、確かに彼のその顔は非常に厳つく、またこういう場に立っているにもかかわらず愛想の一つも浮かべていない。
「……ニラノ様」
思わず呟いたその声に、貴人が驚きの声をあげる。
「このような小さな貴婦人にまでおまえの悪行は有名らしいな」
「ご冗談を」
全く笑っていない大男は、それでも僅かに困ったような表情を浮かべている。
「でも、よく知っていたね、彼のこと。ダームスタ家はそういう方面には疎いとおもったんだけど」
ダームスタの家は、武人を輩出するには程遠く、だからこそ、双子の兄姉が士官学校へ進学したことは、大きな驚きをもって受け止められた。そんな中で、キセが隣国の将軍を知っているとは思わなかった彼らは、口々に大男へのからかいの言葉をかけ、笑い声を上げている。
ただ、貴人だけはじっとキセの目を覗き込み、言葉の軽さとは裏腹に、全く笑ってはいない。
「兄の、兄の憧れの武人ぐらいは、世間知らずだろうとも覚えております」
キセはようやく見つけた無難な答えを口にする。
「まあね、うちにはこの手の武官はいないからなぁ」
「我が国でもこれ以外はいない。そうそういていい種類の男じゃないだろう?」
アスター王子が笑い、それをうけクロロ王女も扇で顔を隠しながら笑い声をあげる。
だが、キセは表面的な笑顔を保つことが精一杯だ。
「知っているとは思うけど、アルゴ陛下。お忍びだから、あまり口にはしないように」
その名を何度も声に出さずに口にし、飲み込む。
キセはようやくアルゴ王に向き合い、視線を合わせる。
ああ、この目だ。
飛び出しそうな言葉を押さえ込む。
「公爵令嬢の美しさは我が国でも有名ですが、やはり言葉では半分も伝わっていなかったようです」
アルゴ王はキセの手をとり口づける。
「隣国の王は賢王だと伺っておりましたが、女性への世辞すら手をお抜きにならないのですね」
キセもそれを軽く受け流す。
二人の姿をクロロ王女ははしゃいで、アスター王子は微かに不機嫌さを出しながら見据える。
「そういえば、公爵家には士官学校へ進んだ女性がいるそうですが」
「姉でしたら、今こちらへ参っておりますが」
プロトアもローレンシウムと同程度に女性の社会進出が遅れている国だ。それは貴族階級ほど顕著であり、隣国でも名家と言われる家の女性が騎士になる、などということは物語の中にしかでてこない。
「お会いしても?」
アスター王子に救いを求めるも、肩をすくめたまま口を挟むつもりはないようだ。
「私はかまいません、が」
控えている侍女に目配せする。万事心得た彼女は、すぐさまキセたちの部屋へと伝えに走る。
「ああ、私がそちらへ参りましょう」
「ですが」
「これほどの警備でさすがに危険はないでしょう?」
強引とも思えるやりとりで、キセはいつのまにか手をとられ、控えの間をくぐっていた。
騎士たちが一斉に注視し、さらにキセは居心地の悪い思いをする。
アルゴ王は、キセへ顔を近づけ、囁く。
「久しぶり、でいいのか?」
その言葉に驚きの声を必死でこらえる。
「いえ、はじめまして、でありましょう。私はキセ=ダームスタですから」
「そうだな。キセだな。あれはあれ、キセはキセ、ということか」
「そういうことです」
誰が聞き耳を立てたとしてもわけがわからないやりとりを、二人は続ける。その姿は仲むつまじく談笑しているようで、警備の人間はやや視線をはずしながらも、警戒を続ける。
「どうして?」
「それは、わかるさ。器は変わってもおまえはおまえだ」
「私は納得するまでに随分かかったのに」
「まあ、本人にしてみれば、わからぬでもない」
徐々に身分差があるとは思えないような口調になった二人は、入り口に立っている長姉の姿を認め、堅苦しいまでのやりとりに戻る。
どういうわけか、キセたちの部屋へと一緒に入り込んだアルゴ王は、緊張したジェーンと剣についての話題を交わしながら、どっかりと椅子へ座り込む。
明らかに貴人ではあるが、誰かを知らされなかったシモンは、大人の男に緊張しながらも、子供好きな彼に膝の上へ乗せられ、興味深い話を聞き、競技を見学していく。
ジェーンは顔をキセと顔を見あわせ、気がつかれないように深く呼吸をする。
「ああ、あれが兄上殿か?」
「あ、はい、そうです……。というか、手を振ってますね、兄上」
気楽にこちらへ向かって大きく手をふり兄を認め、姉妹は困り、シモンは喜んで手を振りかえしている。
その後ろに見慣れない男を見つけた彼は、僅かに眉根を寄せたものの、ジェーンも、武官すらも通したその男は、どこかの偉い人なのだろうと納得し、試合へ集中していった。
結局その日の大会は、兄は順調に三つほど勝ち進んだものの、すでに騎士となった先輩にあっけなく敗北した。
その日の優勝者と目立った成績を上げたものは、王主催の夜会へと招待されることが決定している。
恐らく、士官学校の学生の身分で勝ちを上げたアーセも招かれるはずだ。そう言う場合にアーセは、相手としてジェーンを連れて行く。ダームスタの双子は、悪口を言い合いながらも、やはり非常に仲が良いことでも有名なのだから。
そしてまた、ダームスタ家の次女キセも、一日中彼女たちの部屋へといたアルゴ王の相手として夜会へ出席することとなった。
どちらの姉妹もこういう場へ参加することは初めてであり、隣国からの貴人の出席と同じぐらい、貴族たちの強い関心をひくことになった。