「義姉上」
気まぐれに温室へ行きたい、と言い出した王女に付き従い、キセは当然のようにクロロと共にそこへ向かう。少女らしく花が好きだ、ということではなく、学問に飽きたクロロの言い訳であることは百も承知である。もはや、その言い訳すら忘れたかのごとく、惰性で足を進めていたクロロが、立ち止まり余りいい感情の篭っていない声をあげた。
「相変わらず、勉強をさぼっているのね」
王女の嫌悪の情を向けられた相手は、大勢の侍女を引き連れ、ゆっくりとクロロとキセの元へと歩いてくる。
キセは、あわてることなく臣下の礼をとる。
相手は、この国の王子の妃であり、たかが公爵令嬢であるキセよりも位が高い人間だ。なにもせず不躾な態度をとっていいのは、クロロぐらいのものだろう。
貴人と直接顔を合わせてはいけない。その基本原則にのっとり、磨き上げられた廊下の床をみつめる。
キセの頭上に嘲笑めいた囁き声が降りかかる。おそらく王子妃の後ろに控える侍女がもたらしたものだろう。その声にまったく反応しないキセがまた面白くないのか、いらだった声すら聞こえ始める。
「お義姉さまも、もう少し質の良い侍女をつけられては?もっとも、キセは侍女などではなく、私の友人ですけど」
義理の姉である王子妃を毛嫌いしているクロロが、回転が良いとは言えない頭で、精一杯の皮肉を投げかける。
だが、顔を上げることを許されたキセを見た彼女たちは、ある意味痛いところをつかれたと一様に顔を顰めた。
それは、キセが、この女たちの中で最も美しいと判断される娘だからであり、またその美しさも外見のみがもたらすものではないからだ。
王子妃もそれなりに美しくはあるが、鬱屈したものを抱えているせいなのか、年に伴った落ち着きというものがなく、どこかぎすぎすして卑屈な印象を与える。その侍女たちももれなく、どこか僻みっぽい雰囲気を撒き散らす有様だ。
それはひとえにアスター王子の処遇によるものなのだけれど、女同士の対面を興味ないそぶりをしながら聞き耳を立てている働き手たちもまた、同じような印象を受け取っているだろう。
愚かな義妹に馬鹿にされた王子妃は、唇を噛んでクロロを睨みつける。
どんな形であれ、王子妃のそのような顔をみることを喜びとしているクロロは、ことさらにキセを褒め称えながら、さらなる王子妃の反応を引き出そうと企む。
「私はね、そろそろ新しい側室を迎えた方がいいんじゃないかって思っているのよね」
「……そのようなことをあなたに指図される覚えはなくてよ?」
「でも、ねぇ。言いたくはないけど」
ちらり、と王子妃の腹に視線を送る。
それだけで、幾度となくそのような謗りを受けてきた彼女は、頭に血が上ったような状態となる。
「キセなら、美しいし頭もいいし、家柄も十分だし」
「ダームスタの醜聞は有名ねぇ」
彼女の欠点と言えるものは、父親の奔放すぎる振る舞いだけだ。そこをすかさず突いた彼女は、キセのことを耳にし、何がしか思うところがあったのだろう。そもそも、このような場所で王子妃ご一行と偶然出会う、などということが起こり得る筈がない。
「それでしたら、家督は正式に兄が継ぐことが決まりましたので、お耳汚しをすることもなくなるでしょう」
発言の許しを得たキセが、ありのままの事実を淡々と述べる。
とうとうダームスタの老人たちを怒らせた父は、実質隠遁生活を送ることとなり、現在の愛人と共に田舎の屋敷へと連行された。
それを知ったのは数日前ではあるが、そうだとしてもキセの生活に変化はない。相変わらず当主となった兄は士官学校で生活をしており、ダームスタ家の内は彼女が取り仕切っているのだから。
「ですが、私では不十分でございましょう」
たおやかに微笑んで、クロロの話をやんわりと否定する。
「ああ、そうね。キセが側室だなんて、キセに失礼よね?だってあなた個人もすばらしいけど、なんたって私たち親戚ですものねぇ」
ダームスタがその家格の高さだけではなく、王家に連なるものだ、ということはこの国の常識である。当然、キセは正妃に納まる資格を十分に所持している。しかも、クロロは、王子妃の実家は、ダームスタ家程家格が高くないことを知っていながら、このような言葉を吐きつけているのだ。
思い切りしかめっ面をした王子妃は、常々馬鹿にしていた愚鈍な義妹、ではなく、キセを睨みつける。
だが、王子妃としての矜持をなんとか保った彼女は、言いたいことをこらえながら、大勢の侍女を連れ、長い廊下を後戻りしていった。
「ご不興を買ってしまいましたでしょうか」
「いいんじゃない?どうせあの人たち孤立してるんだし。お兄様も見向きもしてないんだから」
残酷なことだが、これは王宮中が知る真実である。
戦争以降、一時の女遊びを除き、一切そのようなことに興味を失ってしまったアスター王子は、表面上ですら王子妃を立てることをしていない。そうなれば人々に侮られることは必須で、まして望まれて王子妃となった、と豪語し、周囲に傲慢な態度で振舞っていた彼女の人気が失墜することは当たり前である。最近では再び、王子に新しい妃を求める声が出始め、その筆頭となっているのは、ダームスタ家の長女と、次女であるキセだ、ということは、今のところクロロもキセもあずかり知らぬことである。
すっかり言い訳につかった花への興味を失ったクロロは、王子妃を見たせいなのか、もう一度勉強をする、といってキセを喜ばせた。
「姉さま、戴冠式には出るの?」
「一応ね、招待はされているみたい」
大国の戴冠式である。名だたる貴族は招待され、国力を示す装飾品と化すのだろう。半ば義務のようなそれに、当然ダームスタ家は含まれており、兄、アーセと、姉ジェーンも招待されている。
兄は当主であることから、姉は次期王とみなされているクロロ王女殿下の護衛騎士となることが決定していることによる招待だろう。本来ならば、キセまでは呼ばれないのだが、これもまたクロロ王女の侍女、側近として参加せざるを得ない立場だ。一つの家から三人もの参加は、ダームスタ家の家位を示すまたとない機会となるだろう。
「いいなぁ、僕もみたい。姉さま、後で話を聞かせてね!」
体調が良いとはいえ、露台へ出ることがせいぜいの彼は、余りわがままを言わない。あきらめることが癖となっているのだろう。
そんな彼を不憫に思っていながら、どうしようもないキセは、己の無力を呪う。
彼の体を丈夫にする、などということは、それこそ神の領域なのだから。
同じくシモンのことを気にかけている異母弟妹のリリとロンは、キセの土産である絵本を一緒に眺めている。
最近では、キセのつけた教師と学ぶことが多くなり、それほど足しげく母屋へはやってこなくはなったが、それでも彼らは、シモンの心の支え、となってくれている。
それに感謝し、それでもやがて来る別離に、キセはどこか焦燥感にかられる。
このような穏やかな日々は、長くは続かない。
それをキセは、記憶の上で嫌というほど知っているのだから。