「好き」
シンと静まり返った教室に、まだ幼さの残る女性の声が響く。
すでに日は沈んでおり、頼りない非常階段を示すランプのみが、うっすらと室内へと届いているだけだ。
「ありがとう、でも」
「生徒には手をだせない、ですよね」
挑戦的な笑みを浮かべ、長い黒髪を後ろへと振り払いながら、少女が対峙している人間に言葉を突きつける。
「ごめん、でも、平川なら俺みたいなおじさんじゃなくっても…」
「いえ、立場は理解していますが、納得はしていません」
「平川……」
困りきった顔で、それでもなんとか笑顔を形作りながら男が答える。無意識の内にネクタイを少しだけ緩め、冬だというのにうっすらと汗まで滲み出ている有様だ。
「先生は、私の好きだっていう言葉をどれだけ真剣に受け止めているんですか?」
「真剣って、平川はそりゃあ優秀な生徒だし」
「生徒としての評価を聞いているわけじゃありません、異性としての評価を聞いているんです」
「それは、その」
この年頃の少女は独特で、非常に難しい、ということを三年弱しかない教師経験で、彼はすでに痛いほど実感している。彼の呟いた何気ない一言で、女子生徒はひどく傷付き、またひどく浮かれもするのだ。生徒指導をするにあたって最初に釘を指されたのもそのあたりで、ましていまだ若くて独身、という属性は、彼女達が共感を抱きやすく、また影響もされやすい、といった諸刃の剣でもあるのだ。
胸を張って堂々と彼を問い詰める彼女は、確かにそれに見合った容姿の持ち主ではある。
年下、ましてや高校生に興味など無い彼にしても、こうやって二人きりで迫られて悪い気はしない、というのが本音のところだ。
「あんまり大人の男に接したことがないから良く見えるだけだよ、俺なんて。平川も卒業しちゃえば、忘れるよ、さっさと」
高確率で当たる彼の呟きは、この年頃の彼女達の社会経験のなさを端的に現している。
狭い空間に閉じ込められ、精神的に成長の早い彼女達にとってみれば、同級の男どもには幼さを感じてしまうのも無理はない。
そんな中で、並以上のルックスさえあれば、こうやって直接乗り込んでくるほど積極的な女子生徒に、お目にかかるのも珍しくない日常生活をおくれてしまうものだ。
ただ、それをおいしく頂いてしまう、といった人間はやはり一部の人間だけで、ほとんどは彼のように心にブレーキをかけながらも、上手に彼女達をあしらうテクニックを身に付けていく。
だが、今回のこれは、相手が少々手強かったようだ。
傷つけないように、だけれどもきっぱりと断っているにもかかわらず、その女性徒は一向に怯む気配すらみせない。
「私が、そんなもので惑わされるほど価値判断があやふやだって言いたいんですか?」
「社会経験のなさは、どうしたって覆せるもんじゃないだろ?」
成績が優秀で、それなりに品行方正な彼女は、今のところそれ以外の欠点が見当たらない。やや人付き合いが苦手な部類ではあるものの、それも大して気にならないレベルだ。
「一時の気の迷いで、珍しい大人の男に血迷った小娘っていう判断ですか?」
「……そこまではっきり言うのはあれだけど」
「先生の判断はそういうことなんですね、今まで振ってきた子達もそうやって見下していたんだ」
「別に、見下しているわけじゃ」
「だったらはっきりと言えばいい、顔が嫌い、性格が嫌い、趣味じゃない、ありえないって」
それを言えないからこその大人の社交辞令が、生徒には手を出さない主義だ、という方便なのだが、彼女には全く通用していないらしい。
だからといってうっかりと本音を洩らせば、簡単に泣き叫び、明日にはセクハラ教師として糾弾されかねない危険を孕んでいる。
平川が、そういった類の生徒であるとは思ってはいないものの、それでも彼にとっては十分に危険因子であり、用心するに越した事が無い、と判断する。
「私は言える。どこで会ったって、どこで見つけたってあなたが好きだって」
きっぱりといい気る彼女の表情に一瞬見入ってしまった彼は、それでも気を引き締めて反論にかかる。
今日この場ではっきりと引導を渡しておかなければ、これはやっかいな案件になる、と、本能が察知したからだ。
「どうしてそんなに簡単にそんなことが言える?」
「簡単?」
「俺のこと、どこまで知っているわけ?」
ややきつめに言い放った彼の言葉は、半分以上本音でもある。
そこそこの容姿にひかれ、言い寄ってきた女性は、大抵「こんな人だとは思わなかった」といったセリフとともに、彼のもとを去っていった。
勝手に判断して勝手に失望されるのは、あまり思い入れがなかったとしても気持ちのいいものではない。
「何にも知らないだろ?思い込みだろ?ただの」
淡々と、でもきっぱりと言い切る。
言葉で切りつけられた形の彼女は、一瞬だけ戸惑った後、はっきりとした笑みを浮かべ、彼の両目をしっかりと見据える。
「じゃあ、私のことを退けるのはどうして?どれだけ私という人間を知っていて、そんな大切な事を簡単に言えるの?」
「それは、その。俺のほうが社会経験が」
「社会経験が豊富だから、私のは本気じゃない。そう判断するってこと?」
「だから、おまえこそ、俺のこと何一つ知らないだろう?」
「好き嫌いに理由なんている?それとも属性だけで判断してもらいたい?公務員だから、高学歴だから、安定しているからって」
じりじりと縮められた距離に、彼は一歩後退りをする。
彼女が、胸元に飾られたリボンを無造作に右手で弄ぶのを眺めながら、頭の中は必死でただこの場を逃れる術を計算している。
熱病に浮かれたような女子生徒からの軽い告白ならいざしらず、変に深刻ぶっても、軽いのりでもない平川からの告白を、どう扱っていいのかをわからないでいるせいか、すこぶる頭の働きは鈍いままだ。
「だけど」
「私は生徒だから?」
「……そうだ。だからそもそも対象にすらなり得ない」
「そう、だったら卒業したらいいわけ?」
「まあ、そういうことに、なる……のか?」
確かに、卒業したって忘れない、とすがり付いてきた生徒もいるにはいるものの、彼女達はあっさりと、例外に漏れず新しい生活に慣れていくとともに、彼のことはきっちり忘れてくれた。
だから、生徒だからと拒否した後のフォローまでは全く考えた事がないのが本音のところだ。
「じゃあ、聞くけど」
ようやく諦めてくれそうな気配に、彼はネクタイを締めなおす仕草をする。
「私に欲情する?」
「は?」
だが、彼女からもたらされた質問は、彼の想像を簡単に飛び越えてしまうもので、再び彼の神経が働き始めるのに、たっぷりと時間がかかってしまった。無意識のうちに、彼女がリボンをいじっていた右手を見つめる視線に、なにがしかの色が混じっていなかっただろうか、などと、勝手に邪な自分、というものまで想像し、じたばたする。
いつのまにか彼女と彼の距離は初めよりだいぶ近づいたものとなっており、無意識に一歩下がったものの、何も考えない行動は、派手な音をたてて倒れる机、という被害を生み出してしまった。
慌ててそれをもとへ戻し、再びネクタイを緩ませると、平川はイタズラめいた微笑を湛え、彼女のものと思われるかばんを右腕に抱えていた。
「先生、さようなら」
あれほど言い寄ってきた平川が、あっさりと彼のもとを去ろうとすることに拍子抜けをし、やや間抜面で彼女の動きに視線を走らせる。
サラリと流れおちた黒髪に、どきりとし、だけれども、気を引き締めるように左右に首をふり、最大級の危機が去った事に安堵する。
視点は彼女に定まったままで、あちこち感情が乱れているのを自覚する。
その不安定な彼に、彼女がふいに立ち止まって振り返りざまに宣戦布告のような力強さで言葉を投げつける。
「私、諦めませんから」
その場で崩れ落ちそうになるのを堪えるのが精一杯の衝撃で、彼は返事もできずに立ち竦む。
ニヤリと笑い、少女が教室を退出する。
やけになったかのようにネクタイを勢い良く外し、彼はため息をつく。
好みじゃない。
簡単で、あっけなくも女性に納得してもらうには端的な言葉を、自分はどうして口にだせなかったのか。
生徒だから、セクハラだから、相手が少女という面倒くさい相手だから。
そのどれにも当てはまらない理由に、彼は二三度頭を振るう。
本当はもう、つかまってしまったのかもしれない。
途方も無い思いに囚われながら。