こんな恋の始め方vol5 5.30.2004
5.不安

一ノ瀬響はまめな人である。

あの電話から2ヶ月以上たって、私が彼に抱いた感想である。
まず、メールがくる。それも毎日。彼の仕事柄メールを出した時間は深夜であることが多いけど、 それでもきちんと毎日送ってきてくれる。内容は今日の出来事やら感想やら。で、それに喜んで返信している私がいる。
毎週土曜日は研究室の勉強会があるとかで、会えないけど、その夜には電話がある。 日曜日にはできるだけデートをする。本当に感心するぐらい律儀に連絡をくれる。

こんな人もいるんだ・・・。

友だちに聞いたら、それはあたりまえだよって返されたけど、私にとってはどれもこれも初体験なことばかりなので、 正直とても戸惑っている。そんなことを言うと。よっぽど前の男が悪かったのね。と、同情された。

前の男。

一年以上経つのに、その言葉は私にとって禁句だ。大学の友人だけじゃなく、高校時代の友だちにも話したことはない。
彼は中学時代の私の家庭教師だった。高校に入ってから私が付きまとっているうちに、付き合うようになったらしい。 “らしい”って、まるで人事のようだけど、私は彼から「好き」も「付き合おう」とも言われたことがないので、 いまだに実感がもてないのだ。
そんな関係の彼だから、当然親には内緒。当時の私にとっては、親に隠れて付き合っていること自体後ろめたくて、 とてもじゃないけど周りに相談できる余裕はなかった。

今思えば、それも良くなかったと思う。全部内に溜め込んで、吐き出すことも出来なくて。 きちんと相手とぶつかりあって解決していけばよかったのに、 -どうせ-、とか-私なんて-とか言い訳をして、不満ばかりをためていった。

自分から何一つ動かず、言いもしないのに、相手に伝わるはずがない。 そう思うのだけれど、あの当時は何もすることができなかった。

今ならどうするだろう?

一ノ瀬さんが優しくしてくれるたびに思い出す。
私はそんなにしてもらえるほどいい子じゃないのに。
会うたび少し苦しくなる。

私は何も出来ない子なのに。

きちんと決着をつけなかった思いは、今でも宙ぶらりんのまま。 鬱積した気持ちが澱のようにどんどん内側に溜まっていく。そんな、マイナス思考なことを考えてしまうのは、 今が幸せすぎて少し怖いからかもしれない。

一人で考えていると、また内へ内へとこもっていってしまう。
私の悪い癖。
気分転換にコーヒーでも飲もうと、自分の部屋を出て行こうとしたとき、私のケータイが鳴った。

あ、このメロディーは一ノ瀬さん。
着メロで確認しつつ、急いで電話に出る。

「千春さん?一ノ瀬です。今いいですか?」

優しい声が胸に染みる。
一番聞きたかった声が聞こえる。
ほんわかした気分で電話に浸っていると、もののついでのようにこう言ってきた。

「千春さん、あのですね。僕来週から海外へ行くので、2週間ほどメールとか出来ないと思うんです。」

青天の霹靂

2週間も連絡が取れない、声も聞けない。

幸せぼけした私には、たった2週間でも連絡がとれない、ということにひどく不安を覚えた。
例えそれが仕事だとしても。
そんなのはただのわがままだ。そうわかっているから口に出すことはできない。

そこから先の会話は上の空で、いつもは優しい一ノ瀬さんの声も、私にはひどく無機質に聞こえた。


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