8話
「鼻水たらして泣くぐらいなら最初からあんなこと言わなければいいのに」
何時も通りの行動をしようと、無理して休日出勤をした日曜日。あんなに爽快だった空はどっぷりと暮れ、明かりも点けずに書物に埋もれていた私は、いつのまにか暗闇にも埋もれていた。そんな状態で本など読めるはずもなく、目に入ってくる文字は脳をそのまま通り過ぎるのみだ。
そんな静寂の中、憎まれ口をたたきながらずっと頭から離れなかったやつの声がした。
そんなはずはない。
だけど、パチンという音とともに蛍光灯に照らされた下には、やっぱりずっとずっと心のどこかでは会いたいと思っていた人の姿があった。
「ハンカチじゃ間に合わないかな…」
そんな事を言いながら男物の大判のハンカチを差し出す。
訳もわからず受け取る。
「ひょっとして気がついていません?」
「なにが」
「なにがって、そんな状態じゃあ、紙が波打ちますよ」
わけがわからずに、でも、こいつと目をあわすのは癪だと、じっとハンカチを睨みつける。
緑色のチェックのハンカチに、なにやら水滴が吸い込まれていく。
水滴はぽたぽたといよりもボタボタといった方がよく、次から次へと真新しいハンカチへと落ちていく。
その出所が私なのだと気がついた時には、彼の右手が私の頭を乱暴に撫でていた。
「まったく、自覚がないのもここまでくると立派だとすら思えてくる」
生意気な口調に反論しようにも、泣いていたらしい私は声を出せずにいる。
「あのね、確かに移動しますよ。ここからは離れますし。でも会えない距離じゃない」
でも、彼がわざわざここに来る理由もない。新しいところへ行けば新しい交友関係に慣れていくものだ。そうしていくうちに私のことなど忘れていくに違いない。そんな事を思ったら、またチクンと胸が痛んだ。こんな年まで勉強ばかりしてきたせいか、どうしてこんな風になるのかがわからない。
「来ますよ、当然。何のためにパーマネントになったと思うんですか」
不安定なポスドクの身分ではなく、パーマネントの助手と言う職業を選ぶのは当然のことで、それ以上の意味は見出せない。ふるふると頭を振って、素直にわからないということを示す。
「あなたのため、いや、正確にはあなたとつりあうためですよ。もっともまだ僕の方が格下ですけど」
良くわからないと、再び頭を振る。
「ここまで言って、まだわからないかな、この人は」
いつのまにかハンカチは彼の手に移され、私は少し乱暴に顔を拭かれている。いつもなら反抗する彼の行動になぜだか素直に従っている。
「あなたが好きです、って言ったでしょ」
聞いたような気もする。だけどそれは気のせいで、そんな事を思ったら彼に伝わったのか、思い切りため息をつかれた。
「本気です、どこまでも本気です。だから死ぬ気で応募書類書いたり、あちこちにこねつくったりしてがんばったんじゃないですか」
実のところ昨今はドクターあまりが著しい。せっかく博士号を取得しても、現実の就職先は限られている。企業に行くにしても、給料が高いドクターを求める数は遥かに少なく、最大の就職先であろうアカデミックのポストにしても数は限られている。だから、彼のように数年ポスドク生活を送り、その機会を待つ人間も多い。そんな中で彼のようにアカデミックのポストを得られるものは運も実力も人脈もある幸運な人間であると言える。だからこそ、私も喜んでみせたのだから。
「せめて、これぐらいしないと、結婚してください、なんて言えないじゃないですか」
「結婚!!!」
ようやく出せた声は素っ頓狂に裏返っている。だけど、そんな言葉は私の人生には不似合いすぎてわけがわからなくなる。
「ダメですか?」
「だめって…」
にっこりと笑っている彼は、何時もの彼で、だけどからかっているとかそういう雰囲気はなくて。
「奈保美さんだって、こんなに泣く程俺のこと思っていてくれたんでしょ」
「ちがう!これは」
「まさか、有機化学の教科書読んで泣く程器用じゃないですよね」
机の上を人差し指でたたきながら確認してくる。言われなくても私の目の端には感情移入しようもないほど化学的な記述がこれでもかってほど溢れている。
「あなたが素直じゃないのは知っていますけど、いいかげん正直に吐いたらどうですか?」
「なんでもないったら、なんでもないの!」
「ふーん」
「なによ!」
「あなたがそう言うのなら、このまま消えます。それじゃあ」
なんの迷いも感じさせずに彼が背中を向ける。
だけど、理性だとかプライドだとかそんなものを思い出すまでもなく、私は咄嗟に彼の腕を掴み取っていた。
「やだ!」
子供じみた言葉と共に。
「今、いやだって言いましたよね」
咄嗟に掴んだ腕をどうしていいかわからず抱きかかえたままの私に、彼の言葉が降りかかる。
掴んでいた手はあっという間に解かれ、逆に私が捕まれてしまった。しかも私の体を丸ごと、彼が抱え込むようにして。
「結婚しましょう」
あまりにはやい展開に、何を言われたのかがまたわからなくなる。
「奈保美さんの全部を引き受けますから」
「でも、私ひどいこと言った」
「忘れました」
「でも!」
嘘でもあんなことは言うべきではなかった。零れ落ちた瞬間後悔した。
あの時私を見た彼の視線がこちらのくだらないプライドを全て見透かすようで、恐かったのだ。だけど、そんなことは言い訳にはならない。
私は彼を傷つけた。
「だったら!」
力を込めて抱きしめられる、などという体験は初めてで、息苦しいのに心地よい。
「だったら、一生掛けて癒してください、俺の傍で」
その後、私はどう返事をしたのかも覚えていない。
覚えているのは、あの日傷つけた彼の顔を払拭するぐらい眩しい彼の笑顔だけ。
ずっとずっと胸に抱えてきた暗い塊は、いつのまにか消え去っていた。
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Miko Kanzaki/1.12.2007supdate