いつまでたっても変わらない生活。
変わらないあたし。
でも時々何かを思い出すのは、まだ私が「にんげん」だからだろうか。
幾度季節をむかえ、送っていったかもわからなくなったころ、礼奈はふいに懐かしさを覚えた。
それは人ならぬものが届けてくれた、とうきびの甘さに驚いたせいなのかもしれない。
「ねぇ、あたし外出れるの?」
全く変化のない容姿も、重ねた年月のせいなのか、どこか艶を帯びたかのような礼奈は、唐突に男に尋ねた。
二人の物理的心理的距離は縮まり、今では体のどこかが触れるほどにいることが普通だ。
男は、礼奈を激しく求めているわけではないと自嘲しながらも、隣に彼女がいない日を想像できないほどに彼女に依存しはじめていた。
「出られる、と思う。もう礼奈は眷属だから」
「ケンゾク?」
「後で辞書でもひけ」
そういうところは全く甘くなっていない男は、ぴしゃりと礼奈を退ける。だが、彼女に膝枕をされながらでは全くその威厳は感じられない
「まあいいや、で、出られるのね?」
「出たいのか?」
跳ねるように上半身を起こし、男は問う。
すでに慣れてしまった不可思議な両目に見つめられ、礼奈は顔を背ける。
「や、あんなのでもやっぱり家族ってどうなったのかなぁって」
男の説明では、閉じられた空間の中にいる自分たちだけが時を止めているだけで、それ以外のものは普通に年月が過ぎ去っているらしい。礼奈が見たところでも、庭園の木々は新緑から枯葉まで、その季節を彼女に教えてくれている。
だからこそ、ふいに気になったのだ。
彼女がいない彼女の家族が、どうなってしまったのかを。それは男からもたらされる安定感ゆえの、心の隙なのかもしれない。
「心配はしていないと思うんだけど」
その呟きに、男は折れ、礼奈はここに来て初めて外界へ赴くこととなった。
涼やかな絽の着物を纏い、礼奈は久しぶりに外を歩いていた。
艶やかな黒髪は男によって器用に結い上げられ、小ぶりなトンボ玉のかんざしが華を添えている。
「ここ、どこ?」
店先に飾られたカレンダーから、二十年以上の時がたったことを確認したときには、軽くめまいを覚えた彼女だが、それ以上に街の変化に戸惑っていた。
在るべきはずの場所に家がなく、ないはずの場所にビルが立ち並んでいたからだ。
特に駅前などは、ローカル路線独特の鄙びたところを感じさせていた駅舎が、いつのまにか複合施設を併設する近代的な建物になっており、心底驚かされた。そこから連なる道々も舗装され、なじみの店は消え、遊興施設やコンビニエンスストアというものになっていた。
「家、わかんないよー」
渡されたお小遣いを握り締めながら、決死の思いで入店したコーヒーショップでは、注文の仕方がわからず、前の人間の真似をして事なきを得た。
ようやく手に入れたコーヒーらしいものを片手に、彼女はゆっくりと座り心地の悪いおしゃれな椅子へと腰掛けた。
この店はガラス越しに駅前の道路を見渡すことができ、礼奈はたいしておいしいとも思えない飲み物を口にしながら、人々を観察していた。
異様に短いスカートをはいている女子高生と思わしき集団に、昔から変わらないスーツを着たサラリーマン。
一つ一つを確認するように、流れていく人を眺めていく。
その光景がどこか遠くの出来事のようで、礼奈は懐かしさすら感じ取れずにいた。
開きすぎた時間は、すでに礼奈をこの土地から切り離してしまったのだと。
そこへ、不意に声がかかった。
中年にさしかかった女が、あやしい目で見下ろしていた。
「何か?」
「あなた、佐々木さん?」
久しぶりに呼ばれた苗字に、礼奈はしばし反応が遅れた。今では彼女をその名で呼ぶものはおらず、男に礼奈と甘い声で呼ばれるだけだったからだ。
「あの」
「・・・・・・ごめんなさい。知り合いに似ていたものだから。でも、ううん、ごめんなさい」
一人で勝手に納得していった女は、礼奈の顔を不躾なほど見つめている。
自分を見ているようで、別の誰かを探すような表情をしている女を、礼奈もじっと見上げていた。
目尻の皺、肉付きのよい下半身、そして白髪が出始めた頭髪。そんな人間を知るはずもなく、だがどこかで何かがひっかかっていた。
「佐々木礼奈ですけど、あなたは?」
試すように名乗った礼奈に、女は一瞬息を飲み、そして悲鳴をあげた。
幾人かはいた客が、一斉に女をみる。
視線が集まったことなど気がついていないのか、女はおびえた表情をみせ、その場にへたりこんだ。
礼奈は女を見下ろし、ようやく気がついた。
「ああ、あなた」
いくら年月がたち、記憶が色あせたとしても忘れるわけはない。
「あの後、雨は降った?」
「そんな、そんなわけ!」
尻餅をついた格好で後ずさりをしながら、女が叫ぶ。
店員は、女が落とした飲み物を片付けるべく、掃除具をもったまま遠巻きにしている。
「今でもやってるの?そのイケニエとやら」
口角をあげた上げ、うっすらと化粧をされた礼奈の顔が笑顔を作る。
今ではめったにお目にかからない和装と相まって、どこか異次元めいた空間を作り出している。
「いや、違う」
それだけを言い残し、這い蹲るようにして女は店を逃げ出していった。
ようやく近寄ってきた店員に会釈をし、礼奈も店をあとにした。
「ただいま」
「おかえり」
家の奥から馴染んだ声が聞こえ、礼奈はようやく息を深く吐き出した。
甚平を着込み、首からタオルをぶらさげた灰色の男は、縁側から下駄をはいた足を投げ出し座っていた。
夕闇が包み込む少し前の、淡い橙色の日が庭先に注ぎ込む。
「どうだった?」
「んーーー、たどり着けなかった」
小さく舌をだし、土産に携えた冷菓を差し出す。
当たり前のように男の隣に座り、礼奈も行儀悪く縁側から庭へ足を投げ出す。
「また、いくのか?」
「ううん、いかない」
「止めてる、わけじゃないぞ」
「もういい」
「そっか」
そのまま黙った男の膝に頭を乗せ、礼奈は仰向けになって男を見上げる。
はじめは不気味に思った灰色の目が、礼奈を捉える。
「あたし、ここにいていい?」
「・・・・・・あたりまえだろ」
礼奈は起き上がり、男に口付ける。
「ごはんは?」
「ああ、用意できてる」
暗闇があたりを支配し、そして包み込む。
差し込む光は月明かりのみ。
賑やかな男と女の声が聞こえる。
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