2

 心のどこかで昨日の出来事にひっかりながらも、毎日の生活に変化は無い。
亜衣はあたりまえのように学校へ行き、クラスメートと言葉を交わす。
夏が近づきつつある教室は蒸し暑く、ぱたぱたと制服をはためかせ、空気をおこしながら少しでも涼をとろうとする生徒があちこちに見受けられる。
いつものように担任教師が教室へと現れ、ざわついた部屋が瞬時にして静かになる。
これもまた、見慣れた光景だ。
起立の号令がかけられ、惰性のように立ち上がり、礼をして着席をする。
その短い間に、亜衣は腰が抜けそうなほど驚愕し、叫び声をあげなかっただけでも自分で自分を褒めたくなる、ほどの衝撃を受けていた。

「出欠とるぞー」

当たり前のように出席を取り始めた人間を凝視する。

(っていうかなぜ?うそ?まじで?いやいやいや、どういうこと?)

全ての言葉は飲み込まれたまま、胸の中で混乱しながら渦巻いている。
確かに朝から、そのことをかすかに考えなかったと言えば嘘になる。
噂をすれば影、そんな諺を思い出しもする亜衣だが、その言葉が現実になった瞬間に初めて立ち会った彼女は、混乱したまま、あまつさえ無意識で出欠の返事をしてしまう始末だ。
こっそりと周囲をうかがう。
誰も何も言わない。
ただ、自分だけが驚き、うろたえている。
その事実にさらなる混乱が押し寄せる。
乾ききった喉に無理やりつばを飲み込みこむ。
昨日までは見知った、どちらかというと冴えない中年親父であったはずの担任教師の顔をみる。
何度見ても、どれだけ目をこすって見直してみても、そこには例の綺麗なイキモノ、人形のような美貌をもった男しか存在せず、亜衣は、意味もなく手を握ったり開いたりしながらどこかで妙な緊張感を緩和しようと試みている。
人形のような男は、ニヤリ、と亜衣の方をみながら笑い、昨日とはうってかわって、短く整えられた前髪をかきあげながら教室をあとにしていった。

「やっぱ、きれーだよねー」
「へ?」

隣に座った、比較的よく話すクラスメートが亜衣に声をかける。
だが、その言葉にさらに驚愕してしまい、変な声が出そうになるのを必死になって押さえるだけで精一杯だ。

「男とは思えないっていうか」

それを言うなら人間と思えない、の間違いだろう、と、あまり現実を踏まえていないつっこみを心のなかでしながら、クラスメートとの会話に適当に相槌をうつ。

「あの、担任って、あの人だっけ?」

亜衣の精一杯の疑問に、クラスメートは噴出し、「あたりまえじゃん」という短い答えだけが返された。
この教室の中で、彼の存在に違和感を覚えているのは私だけだ。
それに気がついた途端、急激に気分が悪くなり、保健室へと逃げ込んだ。
それで現実から逃げられるわけではないのだけれど。

「んーー、微熱かな。調子悪いんなら帰ったら?」
「あの、うちの担任って」
「あ、あの若はげ?私から言っておくよーん」

ふわふわとしたかわいらしい雰囲気をもった学校医が、いつもの調子で軽口をたたく。

「え?はげ?はげ、うんうん、はげ、や、違う、お願いします」

ころころと笑いながら、学校医がうなずく。

(っていうか、私がおかしーんじゃなかったんだ)

「どうしたの?」
「いえ、なんでもないです」

亜衣の様子が明らかにおかしいことに気がついた学校医が、心配そうに声をかける。
だが、どのように説明してよいのかわからない亜衣は、首を振ることしかできない。
まさか、担任教師が美貌の男に摩り替わっています、などということを言い出せるはずもなく、むしろどちらかというと自分の見間違い、いや、夢に違いない、と、それ以上深く考えることを中止してしまった。
家帰ってシャワー浴びて寝よう。
逃げ出すようにして帰宅した亜衣は、その通りに行動し、次の日には不可思議な出来事は見間違いだったのだ、と、結論付けた。

 次の日、いつものように登校し、いつものように担任がきて、昨日のように驚くことになった。
やはり、どれだけ目を見開いて見てみても、あの男がその位置に立っており、彼が自分の担任なのだと認識せざるを得ないほど自然に、その場に馴染んでいたからだ。
彼の存在を当然のように受け入れている他のクラスメートは、彼に群がったり、黄色い声を上げたりと忙しい。
それを遠巻きに眺めながら、やっぱり腑に落ちないでいる亜衣は、だけれどもそのことを誰にも言い出せずにいる。

「藤川、どうしたんだ?」

だが、そんな彼女のためらいなど知らないのか、綺麗な男は、やたらと亜衣に声やちょっかいをかける。それを妬ましげに睨み付ける周囲の女生徒の視線と、自分だけが担任が摩り替わったことを知っている、というストレスで、その日からたびたび亜衣は保健室の世話になることになった。

「先生…、うちの担任、はげですよね?」
「あ?はげだけど?」

言葉が通じる人間がいる、というそのことだけで泣けるのだと、気がついた。

「すみません、ちょっと寝ます」

指定席のようになったベッドに横たわる。
どれぐらい眠ってしまったのか、気分よく起きたら、目の前に担任が座っていた。
いや、偽担任が、だ。

「なにしてんすか!」
「えーー、亜衣ちゃんオレ見ると逃げちゃうし、ここなら邪魔がこないし」
「いやいやいや、わけわかんないし」
「気にいっちゃったんだよねー、かわいいし」
「全然、全くかわいくないから」
「そんなことないって、おびえちゃって、かーーわいーーー」

じりじりと距離を詰め、近寄る偽担任と、思わず壁際に張り付くように逃げの体制をつくる亜衣。
そんな亜衣の様子を嬉しそうに眺めながらも、なおも近寄る男の両手が、彼女の両手に体重をかける。
自然と押さえ込まれるような体制になった彼女は、声を上げ、助けをもとめようとするものの、どういうわけか声がでないことに気がつく。
どれだけ叫んだつもりになっても、口元からは空気が吐き出されるのみで、ひとかけらも声が漏れてくれない。
慌てて両足をばたつかせるものの、悲しいほどの体格差があるため、なんのダメージも相手に与えられない。
ガラス球のような綺麗な両目が、亜衣の両目をとらえる。

(あーー、なんかやっぱりこいつ人形みたい)

現実逃避のような感想を抱きつつ、これから起こるであろうことを少しでも考えないようにしていた彼女に、ここにきてようやく救いの手が差し伸べられた。

「なにやってんの?」

勢いよくあけられたカーテンと、差し込む蛍光灯の光。
学校医が鬼の形相で、偽担任を睨みつけて立っていた。

「せ、せんせい!」

金縛りがとけたかのように、動けるようになったからだを無理やり動かし、学校医へとすがる。

「っていうかあんただれよ?」
「やっぱり、やっぱりこんな人知らないですよね」
「ふーーん、耐性がある人間がいるとは」
「ごちゃごちゃ言ってないで、警察呼ばれたくなければとっととどきな」

感情のない両目が、学校医を捉える。
自分が睨まれているわけでもないのに、足がすくんで歩けなくなる。

「……警察届けるか?」
「い、いえ、いいです」

何事もなかったかのような学校医の言葉に、亜衣は彼女の背中に隠れるようにして逃げ込む。

(何かしようとしたけど、先生には効かない?)

「おまえんち、何かあるだろ?」
「狐のことか?」

面白くなさそうな顔をして、彼が緩めたネクタイを締めなおす。

「ふん、そういう家がまだあるとはな」
「どうでもいいが、本当に警察につきだされたいのか?」
「ふん、まあいい、亜衣、またな」

捨て台詞を残して、彼はようやく亜衣の視界から消えてくれた。



>>戻る>>次へ

7.25.2009

++目次++Text++Home++