「おまえさんみたいなのにはわからない世界かもしれないがね、そうでもしなきゃ暮らしていけないっていう連中はごまんといるんだ、この世の中」
今までと真逆の世界観に、戸惑い、うまく言葉が出ないどころか、まともな思考すら放棄してしまいそうになる。
「で?あんたが魔術師だって証拠は?」
「証拠……」
スリリルは一見してわかるような魔術は不得手だ。転移の術は使えるものの、今この状態で行うのは自殺行為に等しい。
仕方が無いので、粥が入っていた器に水を入れ、ぬるま湯程度にあたためてみせる。
初歩の初歩であり、短時間ではこの量の水ぐらいしか温められない彼女だが、目ではなく感触に訴えるには、この術は程よく便利なものである。
「……まじか?」
「嘘などついていません」
半信半疑に器を受け取った男は、すっかり温かくなったそれを落としそうになるほど驚き、スリリルを凝視する。生まれて初めて魔術師、というものを見たのだから仕方がないが、逆にそういう反応こそ初めて受けたスリリルも内心緊張する。
「なんでそんなやつがこんなところにいるんだよ」
「……」
「ああ、わかったよ、余計な詮索はしねーよ」
押し黙ったスリリルに、投げやりに男が答える。だが、すでに驚愕した表情などどこかへやってしまった彼は、最初に出会った彼のように冷静な顔に戻っていた。
「医者のじーさんを紹介するよ、もっともあんたの方が遥かに役に立つってぐらいヤブだがな」
ようやく、スリリルは男に職を紹介してもらえる機会にありつくことができた。
そして、彼女が連れて行かれたのは、この繁華街では多少ましな、こじんまりとした木造の一軒家だった。
「ごくろうさん」
安い定食屋で共に夕食をとった医者のロルトが、スリリルに向かって決まりの挨拶をする。
白髪に、皺だらけの顔、手はその年相応にくたびれており、背丈すら縮まってしまったかのような年寄り、が、男が紹介してくれた医者ロルトであった。どこか優しかった祖父を彷彿とさせる眼差しに、すっかり心を許したスリリルは、まるで孫娘のようにロルトに懐き、また仕事の手伝いをし始めた。
男が言うほどロルトの腕は悪くはなく、ただ、ここでの医療設備の限界が、治療の上限値を非常に低いものにしていた。ただし、この場に高性能な設備があったところで、それに値するだけの報酬を出せないのがここの住人の特色でもあるが。そこへ、簡単ではあるが魔術が使用できるスリリルが加わったことで、軽い症状の患者に対する治癒率が劇的に上昇することとなった。
金儲けが目的ではなく、その日ぐらしができればいい、と、簡単に考えていたスリリルは、法外な治療費は請求せず、それがまた評判を呼び、低い報酬単価であったとしても、それなりの患者が賑わう治療院となっていった。
「今日も患者さんが大勢おったなぁ」
「そうですね、でも、軽いものでしたから」
季節風邪による発熱や、初期の伝染病、など、その日働けなくなることを恐れた娼婦たちは、きちんと治療費を払ってでも治してもらおうと、この治療院へとやってくる。また初期のうちに対応すれば、治療費も安くて済む、ということを学習した彼女たちは、わずかな異変でも、ここへ通ってくるようになっていた。そうすれば、結局働ける時間が長くなり、彼女たちはより日銭が稼げることになるからだ。
彼女たちの生活は、ここから出られるはずもなく、年を取ればさらに条件の悪いところへと流れていく。それがここの掟だとはいえ、同姓であるスリリルには少々厳しすぎる現実だ。
「いつまでここにいるんじゃ?」
「いちゃ、だめですか?」
「わしは助かるが、あんたはここにいるような人間じゃないだろう」
娼館の男、に言われたようなことを、ロルトにも日々言われ続けたスリリルは、自分がいる場所、というものについて考えざるを得なくなっていた。
ジクロウを呪う前は、自分の居場所は陛下のそばであり、それ以外は考えられなかった。
自分にはそれだけの価値があり、宮廷魔術師として恥ずかしくないだけの技術があると思っていた。
それ以前は、父のそばであり、祖父の隣が、スリリルの唯一の居場所だ。
わけあって本流からはずされた父は、リイルをかわいがることこの上なく、また、祖母から引き継がれた髪色を、彼女を愛していた祖父は、とても愛してくれていた。だから、どれだけ母から辛くあたられ、顔すら見ることができなくとも、耐えてこられた。
ふと、もう顔すら覚えていない母親のことを思い出す。
彼女は、下級貴族の娘として生まれ、政略結婚としてスリリルの父と結婚した。
髪色から、まっとうな縁談どころか、異性とまともに付き合ったこともなかった父親は、母親のあからさまに打算を含んだ媚態にあっけなく陥落した。結局のところそれは、彼女の家のわけありでも上流貴族とお近づきになりたい、という野心であり、ただの欲望でしかなかったのだけれど、一人娘としてリイルを得た父は、そのことに気がついた後もただそれだけで満足していた。
母親はその後、生家よりも上ではあるが、婚家よりも遥かに落ちる家柄の男と駆け落ちし、二度とスリリルの前には姿を現さなかった。
母との思い出は、ふりきるようにしてスリリルを置いていった彼女の背中、であり、それ以外の母親の絵をまるで思い出すことはできなかった。
暗い思考にとらわれ、ロルトに就寝の挨拶をし、寝室へと引きこもることにした。
毎日、夢にでるのは母親の冷たい背中と、ジクロウから与えられる軽蔑の眼差し。
取り返しがつかないことをした。
どれほど後悔したのかはわからない。
だが、あれ以上ジクロウのそばで、彼が側室を娶り、彼女たちが幸せに子供を生んでいく姿をみることはできなかったと、思っている。
自分が狂うか、陛下を殺すか。
幼い頃からの恋心は、封印されればされるほど、内で強く、濃く、濁っていき、最後には彼女にあのような大それたまねをさせることとなった。
自分が普通の貴族であったなら、と、考えても、だからといってジクロウが他の女のところにいってしまうことには耐えられなかっただろう。
結局のところ、ジクロウが王となった時点で、彼女にどれほど欠点がなかろうとも、結末は同じだったのかもしれない。
胸が締め付けられるような思いを毎夜味わい、幾度か天井を睨め、ようやく眠りに落ちる。
ここでの生活は、陛下のことを忘れられる瞬間を与えてくれるだけ、幸せであると、そう思いながら。