ジクロウたちの尋問から逃げ出したスリリルは、己の体力を超えた地点まで逃げた結果、裏寂れた路地裏に行き倒れてしまった。
元々術者の体力を奪う傾向にある転移の術は、女性で貴族出身であるスリリルには荷が重過ぎた。今まで使いこなせていたかのように思えていたのは、ひとえにジエンの補助のおかげであったのだから。
それを忘れ、あっさりと限界値を超えたスリリルは、適当に栄えた町の裏通りに打ち捨てられたごみのように横たわることとなった。
何度も意識が浮上し、再び落ち、それらを繰り返しながら最後には力尽きた。
こちらを興味深そうに見下ろす一人の男の視線をかすかに感じながら。



「起きたのか？」
「ここは？」
「娼館だ」
「しょうかん？」

粗末ではあるが一応寝具、と呼べる寝台の上でスリリルは目覚めた。
ぼんやりとしながら部屋を見渡し、どちらかというとかび臭い室内の空気を吸い込む。
何も無い部屋。
板張りむき出しの床、何も飾られていない土壁、そして今スリリルが寝ている寝台。それ以外のものは声をかけてきた男が座っている簡素な木製の椅子しか存在していない。
貴族出身のスリリルにとって、一般庶民であるジエンの家も珍しいものではあったが、あちらはまだもう少し生活感や潤い、といったものがあったような気がする、と、漠然とした頭で考える。

「悪いが、こちらもそれほど余裕があるわけじゃないからな」

薄い粥のようなものを差し出され、言われるがままにそれを受け取る。
縁が欠けたような器は初めてで、口にすることもできずにただそれを眺める。

「どんな暮らしをしてきたかは知らないが、それ以上のものはここにはないんでね」

男は素っ気ない言葉を吐き、足を組みかえる。
慌てて粥を口に含み、久し振りの食事が喉を通っていく感触を味わう。

「ありがとうございました。あの、ここ」
「娼館だとさっき言ったはずだが？」

男の指す言葉がわからず、再び同じ質問を口にする。

「しょうかん、ですか」
「ああ、意味がわからないのか。ここは女がその体を売るところだよ」
「体を？」
「それ以外に娼婦が何を提供するって言うんだ？」
「そんな、汚らわしい」
「はん！お綺麗なこって。だがな、お前がさっき食べたその粥は、その汚らわしい彼女たちが稼いだ金で買ったものだ」

思わず口にしたものを吐き出しそうになったスリリルは、誤魔化すように男を睨みつける。

「まあいい、元気になったんなら出てけ。どこのお嬢様かしらないが、こんなところにいる人間じゃないんだろう？」

ジエンと暮らしてはいても、その気質が変わることがなかった彼女は、確かにお嬢様育ちのそれだろう。だが、そのジエンの後ろ盾がない今、スリリルは自分の力一つだけで己の身を立てなければならない、ということにようやく気がついた。
それが王室を裏切り、友人を裏切り、逃亡した結果だ。

「あの、この町」
「ああ？そんなことも知らないのか？」

そう言いながらも男はスリリルにきちんと町について教えてくれた。
ここは王国第二の都市であり、繁華街の端にあたり、どちらかというと安酒場や単価の低い娼館が林立しているところ、らしい。当然客層も悪く、スリリルがあの状態で無事でいたこと事態が非常に恵まれた事だと、男はぶっきらぼうに答える。

「私、住むところが」
「は？その年で家出かい？旦那からでも逃げてきたのか？」

スリリルの年齢では両親に反抗して家出、とは思われないだろう。しかし、大好きな人を呪ってただ逃げていた彼女には、その一言はずきりと痛みを伴うものでもあった。

「そういうわけでは」
「まあいいや、余計な詮索はしないが、お前手に職でもあるのか？」
「手に、職」

スリリルは魔術以外のことは何もできない。
料理も裁縫も、接客業さえその性格を考えれば無理があるだろう。

「あんたの顔なら多少とうが立ってはいうるが、うちで働けねーこともない」
「誰がそんなことを！」
「だったらあんたに何ができる？」

じっと右手を見つめ、考え込む。
自分に何ができるのか、と。

「言っておくが、あんたのその性格じゃあ端仕事もできないだろうし、する気もないんだろう？」

確かに、家事一般全くできない彼女が、そういった細々とした仕事につけるはずもなく、また、陛下以外の人間に命令されることには耐えられないだろう。

「ここは、このあたりに病院はないの？」

ようやく思い当たったのは、己の魔術を医療に転換する、ということだ。
彼女は精神的に作用する魔術を得意としているが、基礎的な医療技術、といったものももちろん学園で学んでいる。
学園ではどちらかというと医療方面へ進む魔術師を推奨していた節があり、また、実際にそちらの資質を有する人間が潜在的に多かったおかげか、その資質以前に基礎的な学習が施されていた。故にスリリルも医者ができる、と豪語する気はないが、その辺の人間よりもは役に立つ自信はあった。

「病院？そんなまともなもんここにはねーよ。ヤブ医者ならいるこたーいるがな」
「あの、その人の手伝いをすることはできませんか？」
「ねーちゃんがか？包帯巻けるって程度じゃ何の役にもたたないが？」
「私一応魔術師なので」
「はぁ？？？」

男がスリリルを凝視しながら数秒固まる。
スリリルが言ったことが信じられない、といったように、彼女の全身にくまなく視線を走らせる。

「気でも違ったのか？」
「いえ、その。そんなに珍しいの？」
「あたりめーだろ。そんなものの顔を拝んだやつなんて、このあたりには一人もいねーよ」

魔術師の数は限られている。
資質を持った人間が少ないのだから仕方がないのだが、その希少な人間はやはり王都近辺で働くことが多い。唯一医療系魔術師のみは地方都市に派遣される仕組みにはなっているが、それも恐らくこのような種類の町ではお目にかかれるものではないのだろう。
王都に育ち、何不自由なく育ったスリリルは、知識では知っていても、いまいち実感の方が伴ってこない。

「でも、学校にいけば試験されるでしょう？」

恵まれた大国であるフィムディア王国では子供への教育に熱心である。
先々代賢王シルローの施政のおかげで、どれほど貧乏であろうとも基礎学問を学ぶ機会は与えられているはずだ。その中には希少な魔術師を育てるべく、その資質を調査する仕組みが組み込まれている。王都ではどれほど親が貧しかろうが、読み書きができる程度は学んでいると聞いている。

「あんたにはわからないかもしれないが、ここにはそんな余裕がないやつの方がほとんどなんでね」
「学校へは行かないの？」
「行けてたらこんなところで働いていないさ」
「でも……。娼婦、と言われる人は教養も大事だって」

スリリルが聞きかじったことがあるのは、王都の中でも高級と知られた娼館の話だ。当然娼婦一人にかかる費用も高いが、娼婦たちは、体以外の部分でも勝負しなければならない。

「あのな、ここにくるような連中はそんなもん求めてねーんだよ。女が大人しく股開いてくれりゃあ、それでいいんだ。気取った会話も、高度な世間話も必要ないんだよ、ここは。その代わり客が払う金も安けりゃ、娼婦が得る金も少ないがな」

あまりにあけすけな物言いに、思わずスリリルは顔が赤らむのを自覚する。