家柄など全く関係のないユリの存在は、非公式的なものだ。
元老院にて彼女が側室へあがる、ということを議論されるはずもなく、ただ、ニーノ側の人員が訝しげな視線を陛下へと投げかけるのみだ。
だが、中途半端に抑制された情報はさらに人々の憶測を呼び、不甲斐なさを立体にしたような陛下をして、熱情にかまけて侍女を館へ押し込めた、という噂に尾ひれがついて浸透していった。
「日に日に攻撃が過激になっていくんだけどさ」
目の下に隈を作ったダレンが、ためいきをつきながらぼやく。
ユリは相変わらずせっせと針を動かしており、己の身がどれほど危険にさらされているかについて自覚がないようだ。
「申し訳ありません、こちらの方でも色々と細工を試みてはいるのですが」
話し相手のアーロナにしても、魔術院の方で策を講じてはいるのだ。だが、さすがに一流の呪術師と言われるスリリルは違う。それら全てを掻い潜り、ユリに過激な呪いをかけてくる有様だ。
もちろんその代償として、彼女自身の体力を削り取っているのだが、今の彼女は死と引き換えにしてもユリを呪い殺しそうな勢いだ。
「陛下にかけられた呪いを公にするわけにもまいりませんし」
全く呪いに関しては門外漢なアーロナでは、いくら書物を紐解こうが全く歯が立たない。だからこそ、ユリを召還する、という明後日の方向へ模索したのだ。現在ではダレンがそれに加わり、呪いを解く方向で進めてはいるが、そちらの方もさっぱりと進展していない。
「もうさ、いっそ陛下襲ってもらえば?あの女に」
作業の手を止め、ユリがあまり女性らしからぬことを口にする。
「いや、それはさすがに」
「だって、やっちゃえば意外とふっきれるかもよ?なんだ、こんなのかって」
「ユリ様、そのようなことを口になさっては」
照れるダレンに、さらに倍照れているようなアーロナが窘める。
ぱりん、という乾いた音がして、長いすの上に座っていた人形が真っ二つに割れた。
「……なんつーか、これあと何日もつんだ?」
「善処いたします」
黒衣をなびかせながら、アーロナが退室する。
恐らく魔術院の方でさらなる対策を施すのだろう。それがどれほど効くのかはわからないものの、しないよりは多少なりともましになってもらわなくては困る。
「もういっそどっか旅に行きたい」
「行くか?」
「何もここにいなくちゃいけないってことはないんだし」
「そうだなぁ、それこそ身代わりの人間を立てとけばいいんじゃないか?どうせこの中には入れないんだし」
スリリルはさすがにここを覗き見するようなまねはできない。さらには本当にユリがここにいる、ということを確認する術をもたない。ダレンの存在は秘密であり、ここに閉じこもっているのは対抗策をまったくもたないからだと、スリリルは考えているはずだ。
ニヤリ、と笑いあった二人の姿は、やがて書置き一枚を残し、綺麗に消え去っていった。
「呪いこない?」
「こないこない、あれはあの館限定だな。そうやって制限つけとくと良く効くんだよ」
「ふーん、よくわかんないけど、まあいいや。でも温泉なんてあるんだねぇ」
ダレンはユリを、温泉がでることしか有名なものがない鄙びた町へと案内した。
外傷に良く効くことで知られるこの湯は、知る人ぞ知る、といった風情である。彼らが宿を求めた先は、とある貴族の持ち物だった、という館を改装し、一般市民へ開放した、という宿泊施設だ。
室内は清浄に保たれ、こざっぱりとした内装は、ごく一般庶民の感覚しか持ち合わせていないユリにしても落ち着くものだ。
「そういえばさ、あの女って私の居場所わかるんじゃなかったっけ?」
夫婦としてダレンと同じ部屋に通されたユリは、無防備に寝台の上への寝そべりながら、ダレンを見上げる。その姿をできるだけ動揺しないようにうけとめながら、ダレンがその問いに答える。
「いや、あれはジエンの腕らしい。聞けば聞くほどあいつは呪い以外平凡だな」
優秀なダレンが言う平凡、というものがどれほどかはわからないものの、かなり特殊な形で突出しているらしいことだけはユリでも理解することができた。
「ふーん、ならいいけど。とりあえず風呂行ってくる」
男女別に作りかえられた大きな浴槽は、ユリに日本を思い出させ、彼女は久し振りに強烈な郷愁に襲われることとなった。もちろん、それに気がついたダレンも、ユリも、お互い何も言わなかったけれど。
「……ぬかったな、その手があったか」
ユリとダレンの逃亡の連絡を受け、アンネローゼが笑みをこぼす。
確かに呪われている場所に留まるのは間抜けのすることである。よりよい策があるのならば、それを実行しない手はない。
「念のため居場所は残してくださいましたが」
ダレンの書置きに途方にくれていたアーロナが情けない声をだす。
今現在もあの館にいるユリ、という厳しく条件された、そのおかげで苛烈となった呪いが矢継ぎ早に届いている。それを考えれば、ダレンのしたことをとがめられないものの、不安は隠せない様子だ。
陛下と宰相は執務中であり、政治家として活動をしているリティも仕事中である。側室、という立場上、公式の行事や私的に見せかけた女同士の付き合い、など以外に仕事があまりないアンネローゼは、アーロナを相手に、盤上の駒を動かしながら陣取りのようなゲームを楽しんでいる。
そば近くにはローンレーが控えており、それ以外の女中などは全て下がらせている。
「そういえば、コザーヌ家がスリリルに近づきおった」
「……、それは、ですが、どこからそのような情報を?」
「人徳」
人差し指を唇に当て、いたずらっぽい表情を浮かべる。それがどうにも胡散臭い笑みに思え、アーロナは苦笑するほかない。
「まあ、それはいいとして、両者のメリットとして考えられるのは、ユリの失脚、でしょうが」
「ええ、それは、おそらく」
あまり政治的側面に強くはないアーロナですら、側室ニーノがユリの存在を邪魔に思っていることは理解できる。ただでさえほとんど寵愛が与えられない状態の今、これ以上余計な存在は目触り以外の何者でもないだろう。その上コザーヌ家にとっては、優秀な魔術師であるスリリルを取り込み、あわよくばアンネローゼ親子の失脚すら狙っているのかもしれない。
「まあ、ユリがいくら愛されているとはいえ、側室にも成れない身ゆえ、あれ以外に騒ぎ立てるものがいないのが救いと言えば救いと言えるやもしれん」
ユリの存在はおおっぴらで非公式なものである。
言葉は矛盾するが、正式な立場に立てないただの愛人である、ということだ。
ジクロウが無理に彼女を側室に立てようとすれば、必ず元老院とやりあう結果となる。だが、ただの愛人として側近くに置くのならば、それほど騒ぎ立てることではない。幾代か前の王は、そのような女と言わず男まで数多く抱えていた、という記録が残っている。さすがにここ最近の王たちは、それほどただれた生活をするものはいなかったが。
現在は王宮内に噂話を提供する以上の混乱は与えていない。
「スリリルとやらも、陛下の寝込みを襲うぐらいの度胸を持てばよいのに」
「ユリ様と同じようなことをおっしゃらないでください、アンネローゼ様」
「ほほほ、さすがはユリ、思考回路がよく似ておる」
さすがにこれほど豪胆ではない、と、考えながらも、アーロナはユリの思わぬ強情さと生命力の強さを思い出し、曖昧に笑うに留める。
「いつまで続くのか?」
「はあ、申し訳ありません。こればっかりは」
言葉に詰まったアーロナを、盤上でも追い詰め、アンネローゼの心地よい笑い声が響いた。