「………お風呂入りません?」
「日に何度入れる気だ?」
「じゃあ、これでぬぐってみるとか」
ウェットティッシュを差し出され、何度も繰り返したやりとりにうんざりする。
元をただせば自らがまいた種、とも言えないでもないせいか、おとなしく琥珀の小言を甘受する。
あれは、なんだったのかと、日増しにおぼろげになっていく記憶を時折たどり、琥珀に睨まれる。
何ヶ月も過ごしたかのように思えて、こちらの世界では一週間しかたっていなかったらしい。
それでも琥珀や由貴たちの心配はひどく理解できるため、私は由貴の説教にも大人しく聞き入らねばならない。
インフルエンザをこじらせた、ということになっている私は、念のためにかかった医者で栄養失調だと怒られ、栄養剤を何本も打たれた上、絶対安静を言い渡された。
琥珀の世話と、由貴と皆川さんの差し入れの山に埋もれながらも、とりあえず大人しく言われたとおりにベッドに横になっている生活だ。
「ちょっとだけ」
「だめです」
道場へ行って真と遊んでこよう、と思う間もなくだめだしをされる。
その真も、私が病気だと知って、毎日このうちの玄関を突破しようとして、琥珀の変化で門前払いされていたらしい。
確かに、怪しいものに捕まって行方不明です、とは、いくら摩訶不思議な現象に遭遇したことがある真とは言え、説明しにくいだろう。
私がいなくなってすぐに、皆川さんと連絡をとった由貴は、あのあたりの年寄りに片端から土地伝来の噂話を聞き込み、ようやく、若い娘をかどわかす美青年の噂を仕入れてきたらしい。
もっとも、それも戦前の話であり、由貴たちが年寄りの記憶を強烈に刺激するまで思い出されることもなかった話らしい。
それが、どうして今になって復活してしまったのか。
理由はわからないけれど、私とあれの波長が著しく合ってしまったせい、としか説明しようがない。
毎日毎日あの家へ訪ねてみるものの、そこはとっくの昔に空き家になっている家で、側へよってみれば朽ち果てないのがおかしいほどの痛み具合だったらしい。
青年とその後ろに見えた瀟洒な家自体、彼が作り出した幻だったということかもしれない。
「あれはなんだったんだろうなぁ」
「翠さん、思い出しちゃだめです、だめったらだめです。もう僕卵焼き作ってあげませんよ」
結局、私が意識を取り戻したのは、琥珀の卵焼きのおかげだったというのは、笑い話でもあり、それほど私は琥珀に餌付けをされている証拠でもある。
毎日出されるおかゆと卵焼きに少々辟易しながらも、私はやはりこちら側に残っていることを喜んでいる。
「明日になったら、もう外へでてもいいだろう?体力も回復したし」
体重は戻っていないものの、これだけ休めばいいかげん体が腐りそうだ。
負い目があるため、彼らの言いなりにはなっているものの限度がある。
「うーーーーーーーーー、どこへ?」
「琥珀が弁当を作ってくれれば、一緒に公園でも出かけないか?」
できるだけ刺激しないように笑顔を作れば、琥珀もつられて笑う。
その笑顔がう嬉しくて、私は本気でもう一度笑う。
「いいです、とってもいいです。僕はりきって作りますね。じゃあ、翠さんお休みなさい」
「いや、まだ夜の十時」
「はい、お休みなさい」
問答無用で電気を消され、琥珀が部屋を出て行く。
仕方がなく無理やり目をつぶる。
彼の姿を思い出そうとして、私はその白い右手しか思い出せないことに気がつく。
「夢、か」
いつまでも消えそうで消えない手首の痛みをなぞる。
うっすらとかかった霧の向こうで彼が笑っているような気がした。
「きっと、大好きだった、よ」
私は安心して眠りに落ちる。
再び琥珀と一緒に太陽の光を目にすることを知っているから。
いつのまにか伝っていた涙とともに、彼の記憶が消えていく。
私は、その日から彼のことを思い出すこともなくなり、結局、彼は私に何一つ残してはくれなかった。
時折うずく、手首の痛み以外に。