「あれは、なんなのよ!」
夢の中で少女が見たことのある男に怒鳴っていた。
気弱そうなその男は、だけれどもはっきりと、
「あれは、昔からよくいるたちの悪い亡霊です」
と、あまり日常生活では用いない単語で説明をしていた。
彼と彼女のことをよく知っているようで、まったく知らないような気もする。
懐かしくて、暖かくて。
起きた後に、うっすらと滲んだ涙の後に気がついた。
「何を泣いている?」
「……よく、わからない」
ひんやりとした右手が私の頬をなぞる。
目をつぶって、いつものように彼に体を預ける。
こうしたことに慣れきってしまい、私は彼の名前すら知らないことを気にしないでいる。
こんなことはおかしい。
奥底で叫ぶ、別の自分の存在はとても小さくて、ため息をつきながら彼を見上げる。
柔らかな笑顔と、どこまで続くかわからない闇を纏った瞳。
私はこれ、が見たくて目を開けたのだ。
体温のない唇が私の唇に落ちる。
甘やかなそれは、私に全てを忘れさせる。
琥珀、と、頭の片隅でささやき続ける声以外に。
「そろそろ、かな」
すでに自力では起き上がれない私は、日付の感覚さえも曖昧で、こういう風になってから幾日立ったのかさえわからない。
確かなのは彼の肌、だけ。
座椅子に預けられた私の体は、まるで自分のものではないような感覚で、だけれどもはっきりと私を支える彼の腕の感触だけは感じられる。
「一緒にいこうか」
「……どこへ?」
「ずっと一緒にいられるところだ」
「それならばかまわない、私はあなたについていく」
「お前ほどはっきりと言い切った女は初めてだ。俺が怖くはないのか?」
「怖い?なぜ?」
「いや、お前がそう思うならそれでいい。愛している」
幾度目かはもうわからないほどの冷たい口付けを交わす。
私が消えてなくなる日も、そう遠くはないのかもしれない。
そんなことを考えながら、ふと、「琥珀」という言葉が口をつく。
それが何を指すのかもわからなくて、首をかしげながらも、何度も口の中でその言葉が、まるで大事な宝物か何かのように繰り返す。
「琥珀?」
わずかに聞こえる程の力で呟やく。
瞬間、うっそうと漂っていた霧は晴れ、私の視界に懐かしい風景が飛び込んできた。
「翠さん!!!」
「誰?」
私を呼びかける人影に視線を合わせる。私を抱いていた彼の両腕に力がこもる。
「翠!何やってんのよ」
見かけたことのある少女二人が、私たちの方に向かって叫んでいる。
それに答える力すらなくて、私は彼に体を預けたままだ。
横抱きに私を持ち上げる。
視界ははずされ、私は彼の肌の色だけが目に入る。
懐かしい。
その感覚だけはどこかに残っているようで、私は一生懸命外で叫んでいる人間の声を聞き取ろうとする。
「離れてください、翠さんを解放してください」
「一緒に行くといっているのだから、俺は娘の望みをかなえるだけだ」
「さんざん生気を吸い取って、それでいて命まで奪おうというのですか?だいたい、お前のようなやつが翠さんに触れていいとでも思っているのですか」
翠、というのだと、自分の名前だと思われるものを確認する。
次に何かを思い出しそうになって、彼の唇で全ての思考を塞がれる。
「うわあああああああああああああああああああ、なにやってるんですか、なにやってるんですか。翠さんに!!!!!」
男の絶叫が聞こえ、あちらから色々なものがこの部屋に投げ込まれているのがわかる。
きな臭い匂いが漂ったかと思うと、投げ込まれた何かが次々と消滅していく。
「霊感女!効かないじゃないですか、まったく、ぜんぜん。っていうか、お前その手を離しなさい」
「知らないわよ、私だって見えるだけなんだから。あのインチキ坊主、今度きっちり絞めてやる」
「そんなことよりどうすんのよ?このままじゃ翠死んじゃう!」
懐かしい声が私の耳に届く。
向こうの人間への懐かしさは止められることができず、私はそろそろとそちらへ視線を向ける。
青年と、少女が二人。
私はこの人たちを知っている。
「思い出すな。おまえは俺の側にただいればいいのだから」
彼の声で再び目を閉じる。
だけど、彼らを懐かしがる思いは溢れ、初めて彼の言いつけを破って、もう一度彼らの姿を追い求める。
「翠さん、翠さん!だめです、ついていっちゃだめです。ずっと僕と一緒にいるって言ったじゃないですか!僕も翠さんがおばあちゃんになってもずっとずっととりついているつもりだったのに、忘れちゃったんですか?」
追いすがるかのような彼の声が聞こえる。
私は、彼を覚えている。
「悪いな、もう手遅れだ」
意識が混濁していく。
考えなくてはいけないのに何も考えられない。
彼の名前を知っているはずだ。
「翠さんじゃなくったっていいでしょう?代わりにこれをあげますから、翠さんを離してください」
「ちょっとちょっと、私をいけにえにしないでよって、由貴まで私を差し出さないでよ」
「俺は、これを好いている。誰にも渡したくはないほどに」
声が、聞こえる。
「たまごやき!たまごやき作ってあげますから、から揚げだってとんかつだって、翠さんの好きなものはなんでも作りますから!」
彼の、声が聞こえる。
「……だし巻きにしてくれるか?」
「翠さん!」
頭の中が弾けるようにして、何もかもを一瞬で思い出す。
わずかに残った体力と気力を振り絞り、彼の手から逃れる。
右手首をつかまれたまま、私は始めて意識を持って彼と向かい合う。
熱のこもった視線で見つめられたまま、彼へ全てを放り投げだしたくなる思いに抗う。
「悪いが、一緒にはいけない」
「約束を違えるのか」
「私はあちら側の人間だ。そちらへは行けない」
「俺とならば行ける。ずっと一緒にいると約束したのはおまえだろう」
「それについてはすまないと思っている。だが、私はあちらへ戻りたい」
「そうはさせないと言ったら?」
ゾクリと背中に冷たいものが走る。
彼から放たれた冷気が、私の体を取り巻いていく。
「私を、殺したら満足するのか?」
空いている彼の左手を掴み、自らの首へとあてがう。
「頚動脈を絞めれば簡単だ。お前の力ならばあっけなく私は殺されるだろう」
体温のない左手が、自分の体温で暖められていく。
「こういう、ことじゃない」
「約束を違えたのは私の方だ。好きにすればいい。だが、許してくれるのならば、私は琥珀の元へと戻りたい」
「あれが、好きなのか?」
「……」
「俺よりも?」
「……」
力を込められた左手が、首筋を圧迫していく。
どれだけそうしていたのかはわからない、外からは相変わらず琥珀たちが騒いでいる声が聞こえる。
ふっと、圧迫感がさり、私が移した体温がなくなっていく。
「このまま殺せたら、おまえは俺のものになったのかもしれないのにな」
薄く笑う彼に、私は急激に今まで彼と過ごしていた「時」が遠ざかるような感覚に陥る。
零れ落ちる記憶。
最後に右腕を引き寄せられ、彼との最後の口付けを交わした後、ようやく私は琥珀たちの側で意識を失った。
琥珀の涙が頬に落ち、ひどく暖かかったことだけを覚えている。
私は、この体温をどこかで探していたのかもしれない。