雨に濡れて露おそろしからず/第3話

「おかえりなさいませ」

超笑顔で迎えてくれた琥珀は、瞬時に顔を顰め、あっというまに私を盾にしながらあとずさる。

「翠さん、なんですか、それ」

一人でどこか別の部屋へ行くほど怖いものではないらしく、琥珀の基準がよくわからなくなる。

「続に言う幽霊というやつだ。琥珀なら見たことぐらいあるだろう?」
「んーーー、残留思念の可視化ってやつですね。こんなに中途半端にはっきりと見えるのは珍しいですけど」
「思念、ということは吸えるのか?」
「いやですよ、あんな残りかす」
「吸えるんだな」
「いやです」
「吸えるんだよな」
「……。そんなことよりも、そのブロッコリースプラウトよりも貧弱な野郎はなんなんですか」
「スプラウトって、琥珀。いや、クラスの委員長だが」
「委員長だがもやしだかスプラウトだか知りませんが、僕の目の黒い内は野郎なんて一歩も部屋へいれませんから」
「あーーー、こいつの言う事は気にしなくていいから、とりあえず皆川さんと一緒に部屋待っていてくれないか?」

恐る恐る頷いた委員長と、なぜだか非常にこの家へと馴染んでいる皆川さんが靴を脱いで家へと上がりこむ。きーきー叫んでいる琥珀を無理やり押し込めながら、なんとかお茶を汲んで運ぶ。琥珀は余程気に入らないのか、私の後ろにくっついてぶつぶつ恨み言を唱えている。
鬱陶しい事この上ない。

「で、まあ、素敵な男とデートできればいいんだな?」
「はいぃぃぃ、とりあえずそれぐらいしかこの体ではできませんし」

どういう仕組みになっているのか、自分で自分の体がつかめない彼女は、胸に手を突っ込んで背中から掌を出して振って見せている。その状況に、肝の小さい委員長は部屋の隅へと座布団を被って退避してしまった。本当に何をしに来たのかがわからない状態だ。

「では、こいつではどうだ?」

十人中八人は確実に好みではないけれどいい男だと言われる琥珀を指差す。
半透明な彼女は、気の弱そうな物言いとは裏腹に、はっきりきっぱりと首を横に振る。

「いやです、好みじゃありませんし」

ここまではっきりと断られるとは思っていなかったので、しばし呆然とする。
顔のよさだけは私も保証できたのに、と、琥珀の整った顔を眺める。

「翠さんひどい!また僕を人身御供にする気だったんですね?」
「悪いか?平和的解決には多少の犠牲はつきものだ」
「いつもいつもいつもいつも僕ばっかりじゃないですか」
「この間のなら埋め合わせはしたではないか」
「それはそうですけど、僕が牡丹にどれだけ振り回されたと思ってるんですか」
「まあまあ、喜べ、今回はお断りだそうだ」
「こっちこそお断りですぅ」

琥珀は膨れっ面をして、それでも私の側からは離れようとはしない。それが嬉しくもあり、ちょっと鬱陶しくも感じる。

「うーーーーーーん、となると私の知っている男は真ぐらいになるが。高校生ではだめか?」
「いや、私ショタコンじゃないもの」
「うーーーーーーーーん、と、そこの委員長、は、無理だよな」

明らかに蔑んだような視線を委員長に送りながら拒否の姿勢を現している。突然指名された委員長は、もう下がれもしないのにさらに後ろへとさがろうとしてもがいている状態だ。やっぱり逃げればいいのに、委員長の考えていることはよくわからない。

「私も一人っ子だしなぁ。あ、パパとかじゃだめ?」

さらっと身内、しかも父親を売る皆川さんの態度に驚く。彼女の優先順位のつけ方を一度じっくりと聞いてみたいものだ。

「いやよ、だってあなたの父親っていったらもうおじちゃんでしょ?」

充分にとうが立っている年齢の半透明な彼女が口を尖らせる。

「色々煩いな、だが、こちらとしても手駒が……」

ふと、キラキラとした頭が脳裏にひらめく。もはや後光のようにもみえる、それは、私にとっては災厄でしかないそれであり、琥珀にとっては疫病神とも言えるそれである。当然私の思考を読んだ琥珀は、私の体を揺すぶりながら反対をする。

「時に聞くが、成仏できなかったらどうするのだ?」
「このままこの家にいついて、くる人間来る人間おどかしまくってやる」

どいつもこいつも似たような思考回路で、どうして私の平和な日常を壊そうとするのだ、と、うんざりしながらも、例のあれを呼びだす。
何もないところから、真っ赤な薔薇を背負いながらあの派手な男が登場する。

「私の麗しの乙女の妹よ、呼んだかい?」

日本人がやったらたぶんハリセンで張り倒したくなるような仕草で一輪の薔薇が差し出される。
渋々受け取ったそれは、植物には罪はないと知りながら、琥珀がゴミ箱へと放り投げている。

「これならどう?」

言わば理想の王子様面した妖怪を指差しながら、半透明な彼女へと訊ねる。
彼女は、まるで夢見る乙女のようなうっとりとした表情を浮かべ、妖怪を見つめっぱなしだ。

「そっか、こっちが好みか、そうかそうか。まあ、思う存分デートしてくればいい」

言うが早いか人間離れした、いや、実際人間ではないのだけれど、動きで妖怪へととりつく。急激に重力は感じないはずなのに、何かがついてしまった背中を見上げ、妖怪が渋い顔をする。

「こいつはなんだ?」
「通りすがりの幽霊」
「どういうことだ?」
「いい男とデートすれば成仏するってさ」
「なんで私が」
「なんだったら、姉さんと口聞いてやらなくも」

言い終わらないうちに妖怪は、いざデートを、といいながら走りさっていった。ニヤニヤと嬉しそうな30半ばの外見をした半透明の幽霊を連れて。

「聞かなくもないって言おうとしたんだけど、まあいいや。どうせ聞くだけはただだし」

あの姉が何のメリットもないのに金髪妖怪と会うわけはない。そんな簡単な事もわからなくなるほど、金髪妖怪は姉に夢中だと言う事なのだろう。身内ながら、あの人のどこにそんな魅力があるのかはわからない。もっとも、彼や琥珀の基準が世間一般の基準と同じかどうかは限りなく怪しいのだけれど。

「委員長、もういないから、大丈夫だから」

おどおどと匍匐前進をしながら委員長が机の側まで這いずってくる。
琥珀はその背中を踏みつけながら、台所へと消えて行った。どうやら、夕食を作る時間らしい。こういうところはどこまでも勤勉でどこまでも真面目である。委員長が私にとって益にも害にもならないと判断したからだろうが。

「……佐伯さんって」
「ん?」

すっかりぬるくなってしまったお茶をすすりながら、不思議そうな顔をしている。

「佐伯さんって、思ったとおり、面白い人だね」
「委員長がどう思っていたのかは聞きたくもないが、私は至極平凡な人間だぞ?」

まさに飲み込もうとしていたお茶を噴出し、皆川さんがこちらを珍しい物をみるかのような目で凝視する。

「翠ちゃん……。重症。」

委員長の気の弱そうな笑い声と、皆川さんのどこまでも好奇心旺盛な話し声と、琥珀の委員長に対する嫌味の嵐につつまれながら、どうしてなのか珍客二人が乱入した晩御飯が始まる。やっぱり、琥珀のごはんはおいしい、と、今日先ほどまでかかりきりになっていたはずの案件を綺麗さっぱり星の彼方に消し去ってしまった。

1.17.2008/Miko Kanzaki
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