「ねーさん、どうして行方不明になったんだ?」
「うそ!!!」「うるさいわね」
現代日本の日本語の使い方をおよそマスターしているであろう青年と、姉の言葉が重なる。
「どうしてそんなことをしたんだ?」
「………」
都合が悪くなるとだんまりを決め込むのも変わっていない。
「だいたい、書置き一つでいなくなるなど、父さんと母さんに知られたら、どれだけ心配すると思ってるんだ?」
「ちょっと待ってください、紫さんはご両親がいらっしゃるんですか!」
「………」
「こちらこそちょっと待て、まさかねーさん、両親を死んだことにしてたわけじゃないだろうね」
ちらりと姉を一瞥する。
完全にそっぽを向いてご機嫌斜めだ。ふて腐れれば問題が解決するわけではないと思うが、いや、この人はちょっとした問題も簡単に放置して線香花火をマグマ級に悪化させる特技を持っていたな。
「あー、エリックさん、うちの両親は健在だ。今仕事の関係でこの家にはいないけど」
がっくりと肩を落としてうなだれているエリックは、あまりのことに放心状態だ。ねーさんにどういう風に言いくるめられたのかわからないが、まさかそんな大嘘をつかれているなどおもいもしないだろう。善良そうな青年ではあるし。
「で、ねーさん、どうしてこんなことをしでかしたんですか?」
段段と温厚な私ですら怒りのレベルが上がってきたらしい。
「……って、ちょっと翠、怒らないでよ」
「これが怒らないでいられますか」
突然置いていかれた者の痛みを、この人は知らない。
そこそこ仲の良い姉妹だったと思っていたのに、私は彼女が駆け落ちするほど悩んでいたなど気がつきもしなかったと、随分自分を責めたものだった。そのときの自分に謝りたい、ええ謝りたおしたいとも。罪悪感など抱くのではなかった。
突然感じたのは柔らかな感触。次にぬくもり。
怒りの周囲の気配に何も気を配っていなかった私は、いつのまにか琥珀の膝の上に載せられていた。
「翠さん、気持ちはわかりますが、落ち着いて」
ポンポンと頭を丁寧に撫でる。その動作が気持ちよい。
「あっと、悪い。琥珀に怖い思いをさせたか?」
「いえ、翠さんにはどんなときでも恐ろしさは感じません」
思考を喰らうという琥珀には、強い感情は影響を与えるだろうと気が付く。
「大丈夫だ、もう落ち着いたから」
数回深く深呼吸をして落ち着かせる。
驚いた顔をして姉が激しく瞬きをしている。気恥ずかしくて、琥珀の膝から下りようとするが、離してくれない。いつもは弱いくせに、こんなときだけ男、妖怪?、の力を発揮することはないのに。
「で、ねーさん、どういうわけか説明してもらえる?」
この格好ではまるで迫力がないが、かえってねーさんの怒りを和らげる効果があったのか、頑なな口を開く。
「だって、実君と結婚させられそうだったんだもん」
「実?ってあのぼんくら兄か?」
ねーさんが口にした実とは、真の兄で佐伯実。当然こいつも私達姉妹のいとこに当たる。
真実を逆にしてつけてしまったせいか、この兄弟の性格は果てしなく軽い。いや、弟の真の方が女にだらしなくないだけ遥かにましである。実兄さんときたら傍にいる女性は口説かなけれバチが当たるとばかりに、片っ端から声を掛ける。それがまた容姿がいいものだからひっかかる女性も多く、また彼自身のストライクゾーンが広いせいか、相手の属性もかなり幅広い。つまり下半身の指令だけで生きているような男だ。そんな男とこのある意味男前な姉が結婚?
「冗談だろ」
「ところが本気」
しばし考え込む。父親はあいつの正体を知らないわけではないだろうに。
「知らないんじゃない?あいつって道場では猫かぶってるし。もっとも女が私とあんたぐらいしかいないせいだろうけど」
「だったら正直に話せば、そんな縁談こっぱみじんだろう」
「それはそうだけど、あいつの方がかなり乗り気でさ、夜道が危ないったらないのよ」
「夜這いか、あの馬鹿兄が考えそうなことだ」
「既成事実を作ってしまえばこっちのものとでも思ってたんじゃない?」
「しかし、それこそ父に話せばなんとかなっただろうに。あいつがいくら強くても父より強いとは思えない」
順番で言うと父の次に私と真がきて、その次に姉、遥か下に実兄さんだったはず。
「24時間監視されるの?まっぴらよ、そんな生活。それに転勤が重なったし、なんか切羽詰っちゃって身を隠してたってわけ」
「それに、外国人なんて認めないっていいそうだし」
説得する前から弱腰でどうする。全く。
わかるようなわからないような。
「まあ、納得は出来ないが理解に勤めよう、ではこの人はなんだ?」
「しらなーーい」
未だに彼に対してわだかまりがあるらしい彼女は途端にそっぽを向く。
「そんな、夫じゃないですか」
悲痛な叫びににも子どものように舌を出して応戦している。
「あーはいはい、じゃあ姉さんはちょっと黙ってて。で、エリックさん」
相変わらず琥珀の膝の上で彼の方へ振り向く。
「姉さんと結婚してるの?」
「結婚と言われると、その、籍を入れてないので、というかいいかげん入れてくださいよ紫さん」
最後は懇願となって姉の方に訴えかけている。徹頭徹尾力関係が丸わかりな夫婦だな。
「どうせくだらない理由で喧嘩したんだと思うが、いったい何が原因だ?」
「くだらないですって!」
姉がメデューサのように振り返る。なれていない人間は石になるぞ、その迫力は。
「だから誤解です」
「あれが?あれが誤解?それで許されるんなら世の中もっと平和になるっちゅーの」
私が姉のおやつを黙って食べてしまったと“誤解”して一週間以上不貞寝をかました姉の言葉はいまいちどころかいま3ぐらい信用ができない。もちろんそんな恐ろしいことはしていないし、姉が食べたことを忘れたに決まっている。
「で、その誤解っていうのは?」
「ぼくが浮気したって言い張るんですよ、紫さんは!」
「だって、浮気じゃん」
浮気、と聞いて納得した。瞬間湯沸かし気のような姉だが、通常それほど怒りは持続しない。それが今回こんなにしつこく怒っている上に、子どもを連れて家出までしでかすなどとは、まあ、人生最大級の怒りなのだろう。
それが誤解に基づくものであったとしても。