昨日の天気が嘘のように晴れた今日。さわやかに目覚めてしまった。昨日の出来事はひょっとしたら夢だったのではと、にわかに期待してみたけれども、台所に入ってその希望はあっけなく砕かれてしまった。
大男が、私のエプロンを無断借用して甲斐甲斐しく朝食を作っているって言う図は、なんというかこう、ビジュアル的にくるものがある。
「おはよう」
「おはようございます」
きっちり私の分だけ並べられた朝食を前にして、のんきに挨拶を交わす。非日常が日常になってしまった瞬間だ。
「おまえは食べないのか?」
「こ・は・く、です」
昨日私につけられた名前が気に入ったのか、彼は名前で呼べと主張する。
「琥珀は食べないのか?」
「はい、もういただきましたから」
こいつの主食が普通の食料ではないことを忘れていた。
「本当にいい思念をお持ちで」
「それ以上言うな」
古い民家にありがちな、そういった類の噂話が良く似合う我が家に対してそのセリフは気持ちのいいものじゃない。
「今日はどうするんですか?」
調度良い濃度の味噌汁を口に含みながら、妖怪小僧が言った言葉を反芻する。昨日確かめに行くとタンカを切ったはいいが、やはり一人で行くのは心もとない。ここは一つ、もう一人犠牲になってもらうか。いざとなったらおとりにすればよいとあっさりと算段する。
「学校が終わったら探りにいくから」
「じゃあ、お迎えにいきますね」
すっかり乾いた自分の着物を身に纏った琥珀は嬉しそうにそう返事をする。
「わかるのか?学校」
「ええ、それはもう」
不気味に微笑んだ彼の笑顔から、情報入手の方法を尋ねようなどという気力がわくわけもなく、私は静かに頷いた。
「鍵、預けておく」
スペアキーを手渡す。妖怪に合鍵を渡すだなんて色気も何もあったもんじゃないな。そんな私の思惑をよそに琥珀はやけに嬉しそうにしている。そんな姿を見るのも悪くは無い、心の隙間でそんなことを考えた。
「おはよう、何かいいことあったの?」
「いや、特にないが。どこかおかしいか?」
登校途中であった親友の由貴に突然訊ねられる。
「なんか弾んでる」
いいことはないが、変わった事は確かに起こったので、彼女の勘のよさに関心してしまう。
「まあ、ちょっとしたトラブルはあったが、たいした事はない」
「ふーーーん、トラブルねぇ」
余り納得してない風ではあるが、それ以上の詮索をしないのがこの子のいいところだ。
「そういえばさ、また行方不明になったらしいよ」
「また?先週にも一人いなくなったばかりじゃないか」
「うん、そうなんだけど、今回は隣の高校の一コうえとかって聞いたよ」
「そう、か」
例の行方不明事件は場所を徐々に移動してゆき、段段とこちら側へ近づいてくる気配を感じさせていたが、とうとうこんなに近くまでやってきたらしい。
「由貴は気をつけないと」
「そーいう翠ちゃんだって、見かけにだまされて連れてかれちゃうかも」
見かけに騙されては余分だが、言葉とは裏腹に心底心配してくれているのがよくわかる。
「大丈夫だよ」
優しい由貴にはあの事は話さない方がいいみたいだな。
「真(まこと)つきあえ」
「翠ちゃん」
両手を組んで、涙ぐまんばかりに喜んでいる同級生にうっかりいつもどおりケリの一つもいれてやりたくはなったが、残っていた理性でなんとか踏みとどまる。
「やっと、僕の愛に応えてくれるんだね」
明後日の方向へ転がりだした会話を、真の耳を引っ張って怒鳴りつける事で軌道修正を試みる。
「一緒について来て欲しい場所があるだけだ、ついてくるのかこないのか?」
どういうわけか、イトコである佐伯真は私のことを気に入っているらしい。事あるごとに愛してるだの、結婚してくれだのほざいている。イトコではあるし同じ道場で師範代を共同で受け持っているだけあって、時間をともにすることが多いが、真に対してそういった気持ちを持ったことは今の今まで1秒足りともありはしない。
怒鳴ったのが効いたのか、耳を押さえつけながらも、渋々承諾する。
なよなよした外見とは裏腹に、こいつはこれでもかなり強いのだ。戦力になってもらわないと困る。想定一人(?)がまったく頼りにならないときているからな。
かばんをもって二人並んで歩き出しながら、真は最初に聞いておくべきであろう疑問を口にする。
「で、どこいくの?」
「どこ、と言われると」
確証が無い上に、場所は琥珀次第だなんてとてもじゃないが、言えやしない。
真が疑問を口に出そうとする前に、私の名を呼ぶ声が聞こえた。忘れもしない雨の日の落し物の低音だ。
「翠さーーーん」
嬉しそうに手を振る琥珀は、すっきりとしたシャツとジーンズを着こなしていた。どこから手に入れやがった、あんな服。
相変わらず私が口に出すより先に、疑問に対する回答を与えてくれる。
「親切なおねえさんから」
巻き上げたというのだな。さわやかそうで優しそうな顔立ちは女性を騙すのにもってこいらしい。天性のホストかヒモ体質か。
「そんな、ちょっと融通してもらっただけなのにぃ」
先程から、口にはだしていない言葉を組んで会話をしているような。
思念を喰らう妖怪は、やはり思考を読むこともできるのか?
「いえいえ、翠さんのだけですよ。なんたって主従関係ですし」
ギュッと拳を握って取り乱しそうになるのを押さえ込む。やっぱり変なものは拾うんじゃなかった。
「翠、こいつ誰?」
先ほどから、傍から見ると意味不明の会話(?)を繰り広げる私達を見守る少年が一人。私が連れてきた真少年は、不愉快そうに琥珀を睨みつける。
「遠い遠い………親戚だ」
「親戚?俺こんなやつ見たことないけど?」
父方の親戚である真とは一族の集まりで小さい頃からしょっちゅう会っていた。うっとうしいことに、父方はそういった集まりが大好きな連中がそろっていたから。だからイトコだの甥だの姪だの一度も会ったことが無いという人はいないんじゃないかと思われる。
「母方の方だから、真は知らない」
仕方がないのでそちらの線で落ち着かせてみる。
「へーーーーーーー、母方ね」
全然信用していない真は、値踏みするような視線を琥珀に投げて寄越す。
そんな態度にきっちり反応を示してみせる妖怪男は素直なやつだ。
「翠さん、誰です?この子ども」
たぶん、真が言われて一番嫌な言葉をさらっと突き刺している。思考が読めないにしても心理戦には強いらしい。子どもと称された真は、高2にしては背も低く、女顔でもっと小さい頃は女の子によく間違えられた美少年である。本人はそのことを気にして、少しでも男らしくなりたいと、格闘技を習い始めたらしい。なので、その辺りを刺激されると、普段おちゃらけていて、穏やかな彼も人がかわったようになってしまう。
「佐伯真だ、よーく覚えておけ、俺は翠ちゃんの恋人だから」
胸をはってとんでもないことを言い出した真を張り倒して、琥珀に視線で訴える。うっとうしいから早く案内しろと。琥珀はそれはそれは見事に嫌そうなため息をついて歩き出す。
「真もいいからついて来い」
そうして二人と一体は琥珀の言う、もう一つの妖怪のアジトへと向っていった。